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別居した二人の手紙のやり取りは、専(モッパ)ら離婚の条件についてだった。ミレヴァの健康状態は思わしくなく、表情も沈み、とても39歳とは思えない容貌に変化していた。子供たちは、落ち着かない様子の母親と自分たちを裏切った父親との不毛の争いに疲れ、取り繕う縞も無い日々を送っていた。A・Eはノーベル賞を受賞したら、賞金を全額贈与すると持ち掛けた。それが離婚の最終条件だった。ミレヴァは、栄誉だけをA・Eのものとするこの提案に反対しなかった。1919年2月14日、別居から4年余り、疲れ切ったミレヴァは、遂に離婚に同意した。
ノーベル賞の賞金については、二人の息子たちのための信託とし、ミレヴァはその利子を使うことができるが、元金に手を付けるにはA・Eの承諾を必要とするということで示談が成立した。1919年6月、A・Eの母親の妹の娘、エルザは正式にA・Eの妻となった。A・Eは、新居に落ち着くと、子供たちの将来を話し合うため、チューリヒのミレヴァの許にやってきた。二人は表向き、冷静に、話し合い、今後も交際していくことで一致した。その後、A・Eは、保養を兼ねて、ハンス-アルバートとはボーデン湖、エドゥアルドとはアローザーに遊んだ。
1922年11月、A・Eはノーベル物理学賞を受賞し、1923年、賞金はミレヴァに譲渡された。ミレヴァは、この賞金でチューリヒ市内に3棟のアパートを購入し、その1棟に住み、残りを賃貸して子供たちとの生活費に充てた。A・Eとミレヴァの揉め事も一服し、曲がりなりにも、家族の穏やかな交流が再開された。しかし、A・Eの二重生活は続き、言葉にならない軋轢がミレヴァとの間に存在した。こうした環境は、次男のエドゥアルドに精神的打撃を与えて、次第に憤懣を鬱積させていくことになった。エドゥアルドは、繊細な、音楽を愛する芸術家肌で、ジグムント・フロイト(Sigmund Freud 1856.5.6.-1939.9.23.)の心理学に傾倒する、真面目な青年だった。しかし、父親には反感を持っていた。彼は自分の愛憎の内面を探求する上で、人間の精神構造を解き明かす必要に駆られ、精神科医の道を志していたが、現実には、自分が20歳を前に統合失調症と診断されることとなってしまう。1933年、A・Eは、エルザとヘレン・デュカスを連れて、アメリカへ移住し、エドゥアルドと会うことは二度となかった。
A・Eはプリンストン大学に新設された高等研究院の教授の職を引き受けた。ミレヴァは、高額な治療費が嵩(カサ)み、負担は増し、苦しい生活を強いられていた。息子を施設に入れることを拒み、息子を擁護する日もあれば、時には人を雇って、発作的な彼の暴力から自分の身を守なければならない日もあった。長男のハンス-アルバートも土木工学者として新妻とアメリカで生活し、ミレヴァは、息子とともに、チューリヒの老朽化したアパートで戦争をやり過ごしていた。やがて、戦火は止み、新しい時代がやってきたが、ミレヴァの日常に変わりはなかった。1948年5月、エドゥアルドは、またもや、激しい破壊衝動に襲われた。家中の物は壊れ、息子の狂乱の中、ミレヴァは絶叫し、失神した。二人はそれぞれ、異なる病院へ搬送され、隔離された。覚醒して興奮状態が収まらないミレヴァはナースコールを押し続け、遂には切られてしまった。病室からは、エドゥアルドを呼ぶ声が朝まで続いていた。それから3カ月後、8月4日、ミレヴァ・アインシュタインは、一人、孤独な死を迎えた。72歳。
( 参考資料 ; メルサ・フィルムズ 2009年 )