何事もなかったかのように日々は続いた。晩餐の灯も消えなかった。いつものように人々は集い、二人の英知を讃(タタ)え、励ました。街はうっすらと明け、朝靄(モヤ)に身を包み、眠そうな知性が目を覚ます。1904年5月、二人に長男ハンス-アルバート(Hans-Albert Einstein 1904.5.14.-1973.7.26.)は誕生した。間もなく、ミレヴァの父親が、多額の持参金を申し出るが、A・Eはそれを一蹴してしまう。「ボクは、お金のためにミレヴァと結婚したのではありません。彼女を愛しているからです。」「ミレヴァは、人生において、そして、何より、科学において、ボクを守ってくれる天使なのです。彼女がいなければ、彼女の存在がなければ、ボクの人生に光も無ければ、成功の二文字もなかったでしょう。」その告白は真実を述べている。そして、それは、予言でもあった。
学位を取得してから9年、A・Eはチューリヒ大学の理論物理学の教授になっていた。再び、チューリヒに戻っていたのである。「親愛なるヘレーネ。アルバートはドイツ出身の最も優れた物理学者の仲間入りをしました。彼に相応しい成功をとてもうれしく思います。彼の講義は欠かさず聴講しています。」ミレヴァはA・Eの講義の準備も手伝っていた。二人の暮らしは、穏やかで充実していた。何も不足は無かった。育児を友人に頼み、二人は、仕事に邁進した。しかし、しばらくすると、ハンス-アルバートの入学年齢が近づき、ミレヴァは息子の学習状況が気になってきた。2番目の息子、次男エドゥアルド(Eduard Einstein 1910.7.28.-1965.10.25.)が誕生するのはこんな時だった。
しかし、一家はベルリンへやってきた。暗雲立ち込める都市へ。A・Eは、ミレヴァに盾突(タテツ)かれ、御門違いの逆恨みと、憤懣に苦しむ自己矛盾から、先ず、ミレヴァに秘密にしていたベルリンに住む幼な馴染の従姉(イトコ)、エルザ(Elsa Einstein 1876.1.18.-1936.12.20.)を誘惑して、結婚の約束をさせ、そのうえで、家庭での、馬鹿げた過酷なルールを作り、ミレヴァに押し付けた。即ち、A・Eはエルザに手紙を書いた。「親愛なるエルザ。愛する人の無い人生などみじめなものだ。君と二人きりで数日過ごすことができたら。ボクは、今、妻をクビにできない使用人のように扱っているのだ。」そうして、ミレヴァに、一緒に暮らす条件として、自分から話しかけないこと、要求されればすぐに部屋から出ていくこと、彼に敬意を払うこと、一日に3度食事を出すこと、を守るよう命じた。ミレヴァの判断は早かった。愛人の存在と不当な扱いと虐(イジ)めに耐えきれない、と悟ったミレヴァは子供たちを連れて家を出た。A・Eは驚き、泣き、ミレヴァは夫が愛人と別れて、後を追ってくるだろうと考えた。しかし、A・Eは、スイスに来ることは出来なかった。1914年7月28日、世界大戦が始まったのである。
何事もなかったかのように日々は続いた。晩餐の灯も消えなかった。いつものように人々は集い、二人の英知を讃(タタ)え、励ました。街はうっすらと明け、朝靄(モヤ)に身を包み、眠そうな知性が目を覚ます。1904年5月、二人に長男ハンス-アルバート(Hans-Albert Einstein 1904.5.14.-1973.7.26.)は誕生した。間もなく、ミレヴァの父親が、多額の持参金を申し出るが、A・Eはそれを一蹴してしまう。「ボクは、お金のためにミレヴァと結婚したのではありません。彼女を愛しているからです。」「ミレヴァは、人生において、そして、何より、科学において、ボクを守ってくれる天使なのです。彼女がいなければ、彼女の存在がなければ、ボクの人生に光も無ければ、成功の二文字もなかったでしょう。」その告白は真実を述べている。そして、それは、予言でもあった。
翌1905年は、二人にとって、又、物理学の歴史にとっても、記念すべき、最高の、素晴らしい年となった。二人は5つの論文を次々と発表した。A・Eの署名で書かれたそのうちの3つ論文は、20世紀の古典物理学の重要な支柱である、ブラウン運動、光電効果、特殊相対性理論について論証したものであり、それは、科学史上、歴史に残る革命的な偉大な業績と見做された。二人の協力は、史上類を見ない学究の頂点に立つ超絶的成果という以外に表現のしようがなく、それは到底、余人の及ぶところではなかった。ミレヴァは書いた。「偉大な成果です。本当に偉大です。美しい成果です。」
この年、A・Eはミレヴァと長男を連れて、ミレヴァの両親の家を初めて訪れた。二人の生活を、経済的にも、心情的にも、無条件で支えてくれた、その夫婦に、A・Eは、感謝と尊敬と、そして、少なからぬ負い目を感じていた。涙が頬を流れた。しかし、蜜月は一晩だけだった。二人は、寸時も惜しまず、その短い滞在中も、論文の原稿の書き直しに専心し、夢中でメモをやり取りする娘とA・Eの姿に、ミレヴァの両親は、物理学者という世間離れした学者の暮らしの一端を、初めて知ったのだった。
旅行から帰ると二人は、再び、A・Eの署名で、3ページの短い論文を「物理学年報」に送った。問題の方程式E=mc2はこの中に入っていた。所謂、相対運動に関する研究は、二人の共同の長年のテーマであり、何れ、どこかで、何らかの答えを明らかにする必要があった。論文のヒントは、A・Eの慣性系についての列車に関する考察であったが、その全体は、二人の共同研究の賜物(タマモノ)であった。相対性理論は、物体の速度がどんなに速くなっても、現象を正しく説明できる理論である。相対性理論を用いると、運動している物体上では、時間が進んだり、遅くなったり、長さが変化したりすることが示されるが、最も重要なのは、最終的に、質量はエネルギーと同じものである、という結論が導き出されることである。それこそが、E=mc2が意味する、運動エネルギーの究極の原理であり、核分裂反応を誘発する導線となるものであった。
学位を取得してから9年、A・Eはチューリヒ大学の理論物理学の教授になっていた。再び、チューリヒに戻っていたのである。「親愛なるヘレーネ。アルバートはドイツ出身の最も優れた物理学者の仲間入りをしました。彼に相応しい成功をとてもうれしく思います。彼の講義は欠かさず聴講しています。」ミレヴァはA・Eの講義の準備も手伝っていた。二人の暮らしは、穏やかで充実していた。何も不足は無かった。育児を友人に頼み、二人は、仕事に邁進した。しかし、しばらくすると、ハンス-アルバートの入学年齢が近づき、ミレヴァは息子の学習状況が気になってきた。2番目の息子、次男エドゥアルド(Eduard Einstein 1910.7.28.-1965.10.25.)が誕生するのはこんな時だった。
二人のバラ色の日々は終わりが近づいていた。A・Eの業績の評価が高まるに連れ、その名声はヨーロッパ中に広まり、論文の依頼が殺到するようになっていった。A・Eは勿論、ミレヴァも、その対応に多忙を極め、到頭、家庭生活にも歪みが生じ始めた。「親愛なるヘレーネ。私のアルバートはとても有名になりました。彼は、物理学だけに身を捧げ、家族のための時間は、もうほとんど、無くなってしまいました。」A・Eは、もう夢中だった。そのソサエティに没入し、有頂天と言ってもいい状態になっていた。もはや、彼は、世の男たちと同じ、男尊女卑のただの紳士擬(モド)きになり下がっていた。その欲望の虜になった男にベルリン大学から、教授職の誘いが来る。ミレヴァは強硬に反対した。
しかし、一家はベルリンへやってきた。暗雲立ち込める都市へ。A・Eは、ミレヴァに盾突(タテツ)かれ、御門違いの逆恨みと、憤懣に苦しむ自己矛盾から、先ず、ミレヴァに秘密にしていたベルリンに住む幼な馴染の従姉(イトコ)、エルザ(Elsa Einstein 1876.1.18.-1936.12.20.)を誘惑して、結婚の約束をさせ、そのうえで、家庭での、馬鹿げた過酷なルールを作り、ミレヴァに押し付けた。即ち、A・Eはエルザに手紙を書いた。「親愛なるエルザ。愛する人の無い人生などみじめなものだ。君と二人きりで数日過ごすことができたら。ボクは、今、妻をクビにできない使用人のように扱っているのだ。」そうして、ミレヴァに、一緒に暮らす条件として、自分から話しかけないこと、要求されればすぐに部屋から出ていくこと、彼に敬意を払うこと、一日に3度食事を出すこと、を守るよう命じた。ミレヴァの判断は早かった。愛人の存在と不当な扱いと虐(イジ)めに耐えきれない、と悟ったミレヴァは子供たちを連れて家を出た。A・Eは驚き、泣き、ミレヴァは夫が愛人と別れて、後を追ってくるだろうと考えた。しかし、A・Eは、スイスに来ることは出来なかった。1914年7月28日、世界大戦が始まったのである。