物語は26年前に遡る。20世紀最高の頭脳アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879.3.14.-1955.4.18.)は、その死に際して、秘書ヘレン・デュカス(Helen Dukas 1896.10.17.-1982.2.10.)に、プリンストン大学高等研究所の地下に保存してある4万点を越える遺稿の管理を依頼し、彼女の死後は、イスラエルのヘブライ大学に、その全てを譲渡・移管するよう、遺言した。そして、この遺言は、1981年、その年、死の病の床にあったヘレンによって、実行に移された。遠く、大西洋の彼方から派遣された50人の屈強な兵士たちによって、ユダヤの英雄の遺品は、合衆国から不滅の魂の永らえる故地へと、運ばれていった。
ハイデルベルク大学でミレヴァは量子力学の先駆者、実験物理学者のフィリップ・レーナルト(Philipp Eduard Anton von Leonard 1862.6.7.-1947.5.20.)に学んで、先進的な物理学に目覚めた。レーナルトは、数学を用いて、分子の存在を予言、実証しようと企て、又、実験物理学者としては、金属に、紫外線を当てると、金属表面から、電子が放出される光電効果を実証するなど、革新的な研究者として知られた人物で、ミレヴァは後に、レーナルトから吸収した知識をA・Eとの共同研究に取り込み、A・Eの数学的直観と理論的デザイン力の飛躍に大いに貢献することになる。それはまた、あの相対性原理発見のきっかけを作ることに繋がっていった。
1898年4月、ミレヴァはチューリヒに戻り、1899年、周回遅れの中間学位試験に臨んだ。その結果は、好ましくないものだったが、一応合格とされ、ミレヴァは、ひとまず、胸を撫で下ろした。しかし、A・Eの前年の試験の結果はトップで、ミレヴァとの実力(?)の差は歴然となっていた。A・Eは担当教授ハインリヒ・ウェーバー(Heinrich Friedrich Weber 1843.11.7.-1912.5.24.)の俗物さに辟易し、授業にもほとんど出席せず、ミレヴァを誘って、二人で部屋に籠(コモ)り、電磁気学の読書研究に没頭するようになっていた。このハインリヒ・ウェーバーとは、如何なる人物か、と言えば、新奇奇抜なものは嫌い、従って、電磁気学はカリキュラムに入れず、より、地に足のついた実用の学問を好むタイプの温順な学者であり、そういう風だったので、ミレヴァには及第点ぎりぎりの成績を与える一方で、就職の当てをちらつかせ、とにかく、女性を学問の世界から遠去けるべく、良心的に配慮する、鼻持ちならない、所謂、大人の先生だったのである。
1981年12月、雨の夜、プリンストン大学の高等研究所から、大量の書類を運び出そうとする集団があった。彼らは重武装した一群の兵士であり、明らかに合衆国の軍隊ではなかった。
物語は26年前に遡る。20世紀最高の頭脳アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879.3.14.-1955.4.18.)は、その死に際して、秘書ヘレン・デュカス(Helen Dukas 1896.10.17.-1982.2.10.)に、プリンストン大学高等研究所の地下に保存してある4万点を越える遺稿の管理を依頼し、彼女の死後は、イスラエルのヘブライ大学に、その全てを譲渡・移管するよう、遺言した。そして、この遺言は、1981年、その年、死の病の床にあったヘレンによって、実行に移された。遠く、大西洋の彼方から派遣された50人の屈強な兵士たちによって、ユダヤの英雄の遺品は、合衆国から不滅の魂の永らえる故地へと、運ばれていった。
その文書は夥しい雑多な、日々の手紙や論文の草稿の中に紛れ込んでいた。全ては、そこに仕舞い込まれてセピア色の記憶と化し、誰からも顧みられることもなく、打ち捨てられ、忘れられていた。ジーニアス(天才)A・E(アルバート・アインシュタイン)の秘められた遠い過去、若き日の愛と栄光と苦悩の日々を、赤裸々に綴った手紙や手記、研究ノートなど、一連の文書は、かくして、漸(ヨウヤ)く、陽の目を見る。
A・Eが、その女性と出会ったのは、1896年の秋、チューリヒのスイス連邦工科大学に入学した時であった。理論物理学を専攻したのは、その女性、ミレヴァ・マリッチ(Mileva Maric 1875.12.19.-1948.8.4.)とA・Eの二人だけである。彼らの出会いは運命の悪戯(イタズラ)と言った方がいいものだった。そうとしか言いようがない。
ミレヴァは、1875年12月、オーストリア-ハンガリー帝国の南部ノヴィ・サド近郊、ティテル(現在のセルビア共和国の一部)の裕福な家庭に生まれた。股関節脱臼だった。幼い頃は内気な面もあったが、負けん気で、競争心に燃え、承認欲求は人一倍強かった。又、聞き分けのいい性格で、規範意識もしっかりした模範生だった。目端が利き、目から鼻に抜ける賢さで、天才の片鱗を子供のころから発揮した。父親は、娘の跳び抜けた能力を目の当たりにして、その力を開花させるべく、1891年、特別に、ザグレヴの名門男子校、王立古典高等学校(英訳;ロイヤル・クラシカル・ハイ・スクール)に入学させる許可を得る。ミレヴァは期待に応え、難関の入学試験に合格し、翌1892年、10年生として、入学を果たした。1894年2月、物理学の授業に出席する特別許可を得、9月、最終試験に合格、その年、彼女の数学と物理学の成績は、他の男子学生を圧倒して、最高の成績だった。しかし、その直後、ミレヴァは原因不明の重篤な病に襲われる。辛うじて、回復したミレヴァは、医療体制が整っているスイスへの移住に踏み切り、11月、やむなく、チューリヒの女子高等学校に入学した。1896年、卒業と同時に、チューリヒ大学に入り、医学を1学期だけ履修、秋には、数学の編入試験を受け、チューリヒのスイス連邦工科大学に転校した。
画して、ミレヴァはA・Eと遭遇する。ミレヴァ20歳、A・E 17歳。A・Eは明らかにまだ少年であった。彼らが、互いに魅かれあったかどうかは分からないが、二人の間には意思の疎通はあった。
19世紀後半は、物理学の世界にとって、地殻変動の大なる季節であって、実験室では、電気と磁気の研究が猛烈な勢いで進められる時代に突入していた。それはさながら、カーニヴァルのパレードの如き様相を呈し始めており、何処で誰が何の実験をしているのか、到底、把握することは出来なかった。もはや、科学は、X線、放射能、磁気・磁極など、ニュートンの唱えた万有引力の法則の世界を超えて、誰にも説明できない領域へ広がり、長い目で見て、全てに説明をつけるとすれば、ニュートン力学か、それとも、電磁気学か、という議論が俄(ニワ)かに行われるようになっていた。物理の世界の新たなる黎明期なのか、あるいは、混乱の渦中に法則と真理を見失っているだけなのか、それは誰にも、皆目解らなかった。ただ、決着の予感だけは誰しもが感じ取っていた。遠からず、答えは出る、と。言うまでもなく、ニュートン力学と電磁気学は相反する立場である。この劇的変化の只中に、A・Eとミレヴァの世代は放り出される運命にあった。
1年は瞬く間に過ぎ、二人は学期末試験も無事に通過して、各々、新たな段階へ踏み出そうとしていた。1897年10月、ミレヴァは、単身、ハイデルベルクに向かった。ドイツで最も古く、権威ある大学、ハイデルベルクは、そこに学ぶこと自体、名誉であると言われる名門大学であり、ミレヴァは、そのハイデルベルク大学で物理学と数学の冬期講義を聴講生として受講するため、一時的にチューリヒを離れることを決意したのだった。それは、短いながらも、A・Eとの、別れ、を意味した。A・Eはすでにミレヴァを慕っており、複雑な感情が彼の心を支配していた。数カ月後、ミレヴァは漸(ヨウヤ)く、A・Eからの手紙に返事を書いた。「親愛なるアルバート。手紙をいただいてから随分、経ってしまいました。退屈するまで返事を書くな、と、おっしゃるので、それに従っていたのです。退屈になるのを、今日まで待ち続けましたが、一向に退屈しません。」
ハイデルベルク大学でミレヴァは量子力学の先駆者、実験物理学者のフィリップ・レーナルト(Philipp Eduard Anton von Leonard 1862.6.7.-1947.5.20.)に学んで、先進的な物理学に目覚めた。レーナルトは、数学を用いて、分子の存在を予言、実証しようと企て、又、実験物理学者としては、金属に、紫外線を当てると、金属表面から、電子が放出される光電効果を実証するなど、革新的な研究者として知られた人物で、ミレヴァは後に、レーナルトから吸収した知識をA・Eとの共同研究に取り込み、A・Eの数学的直観と理論的デザイン力の飛躍に大いに貢献することになる。それはまた、あの相対性原理発見のきっかけを作ることに繋がっていった。
だが、ハイデルベルク大学では、女性が卒業することは認められていなかった。A・Eは手紙で催促した。「早く、戻ってきて。戻って後悔するようなことは、何もないと信じています。あなたなら、きっと、直ぐ、追いつけますよ。」
1898年4月、ミレヴァはチューリヒに戻り、1899年、周回遅れの中間学位試験に臨んだ。その結果は、好ましくないものだったが、一応合格とされ、ミレヴァは、ひとまず、胸を撫で下ろした。しかし、A・Eの前年の試験の結果はトップで、ミレヴァとの実力(?)の差は歴然となっていた。A・Eは担当教授ハインリヒ・ウェーバー(Heinrich Friedrich Weber 1843.11.7.-1912.5.24.)の俗物さに辟易し、授業にもほとんど出席せず、ミレヴァを誘って、二人で部屋に籠(コモ)り、電磁気学の読書研究に没頭するようになっていた。このハインリヒ・ウェーバーとは、如何なる人物か、と言えば、新奇奇抜なものは嫌い、従って、電磁気学はカリキュラムに入れず、より、地に足のついた実用の学問を好むタイプの温順な学者であり、そういう風だったので、ミレヴァには及第点ぎりぎりの成績を与える一方で、就職の当てをちらつかせ、とにかく、女性を学問の世界から遠去けるべく、良心的に配慮する、鼻持ちならない、所謂、大人の先生だったのである。