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とにかく、エリック・シーガル(Erich Segal 1937.6.16.-2010.1.17.)のあの疑似的純愛(全くの作り物、という感じ。)の「ある愛の詩(ラヴ・ストーリー)」が世に出たことによって、当時の若者たちがいかに純真無垢であるか、ということが、実しやかに喧伝(ケンデン)され、それを是とする風潮がしばらく続いたが、それがよかったか、どうか、ということについては意見の分かれるところである。そして、これを契機に、数多の、老若男女のラヴ・ストーリー(恋愛映画)が世に溢れ、愛の時代とでも呼ぶべき季節が到来したのである。様々なシテュエーションで、様々なアーティストが様々なストーリーを演じ、様々な愛が表現された。それは、やがて、在り来たりのストーリーと在り来たりの演技と在り来たりのエンディングに導かれ、出てくる顔ぶれもお馴染みの面々となっていく。
画して、「ある愛の詩」から5年、リアリズムの鬼才、ベルナルド・ベルトルッチ(Bernardo Bertoluci 1941.3.16.-2018.11.26.)は満を持して、「ラスト・タンゴ・イン・パリ」を世に問う。それは明らかに、「ある愛の詩」を意識した断絶する世代の男女のセクシュアルな行為を通じての純愛物だった。これが、「ある愛の詩」の翻案であることは、その結末が番(ツガ)いの一方の死によって、ストーリーを完結させていることからも明らかであり、それによって、不可避的断絶という双方のテーマが完結するのである。そういうことに、本邦の人々はあまり関心がないようである。つまり、その疎外と挫折の物語の奥にある、年の差という、堆積した過去に耐えきれなくなってしまった男と、これから正に船出しようとしている女との、越えられない悲しい人生の回帰線の破局を心に残して映画は終わるのであるが、それは、実は、凋落する旧態依然とした社会と激しい闘争の中か這い出してきた未だ眼も開かない新世代との噛み合わない未来を象徴するものであった。