1968年、首都ワシントンでも、ヴィエトナム戦争に反対する抗議行動が始まり、外国人であるペトラもこれに参加するが、気分は、まだ、そぞろだった。しかし、その浮ついた気分も、直ぐに消し飛ぶ事件が、突如起こった。4月4日、キング牧師(Martin Luther King 1929.1.15.-1968.4.4.)が、暗殺されたのである。衝撃は、全国に及んだ。茫然自失した。その夜は、全都市部が戒厳した。夜が明けても騒ぎは治まらなかった。怒号と涙が溢れた。やりきれない感情が体中を駆け巡るのだった。ペトラは身じろぎもしなかった。彼らの悲しみに同情し、止まらない涙に自分でも訳が分からない状態だった。これから、一体、どうなるのか?
1966年、ペトラはワシントンD.C.の大学に通い始めた。癌で闘病中の妹グレース(Grace Kelley 1959.5.25.-1970.2.17.)に電話することが日課だった。ペトラが、学生評議員に立候補したのは入学後、間もない10月のことである。彼女のスローガンは、「強い女に一票を」というもので、選挙ポスターはモーターバイクに乗って一輪の花を翳(カザ)してポーズをとる、かなり浅薄なものだった。しかし、結果は圧倒的得票で、その後、3年にわたって、ペトラは、外国人学生代表として、学生評議員を勤めることになった。そして、このことが、彼女を世に出す大きなきっかけとなったのである。
彼女の大学、首都ワシントンのアメリカン・ユニヴァーシティはヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger 1923.5.27.)が教鞭をとったことでも知られる外国人が比較的多い大学であって、そういう意味で、ワシントンの政治家は気軽にこの学生たちと交流することを好んだ。当時の副大統領ヒューバート・ハンフリー(Hubert Humphrey 1911.5.27.-1978.1.13.)もその例外ではなく、テレビのトークショーの相手に彼ら、外国人学生代表である学生評議員の面々を選んだ。その番組は予想外の白熱した論戦が展開される激しいものになった。その主な舌鋒鋭い発言者は誰あろう、言わずと知れたペトラであり、ヴィエトナムにおける許し難い人道の危機の責任が誰にあるのか、と副大統領に詰め寄ったのだった。
既に、西海岸から学生叛乱の火の手が燃え上がろうとしていた合衆国にあって、エスタブリッシュメントの拠点、東海岸は未だ平穏な微睡(マドロミ)の中にあった。ハンフリーが、偽善的なリベラルの仮面を被った日和見主義者か、誠実な信念に裏打ちされた真の変革者なのか、見極める目は未だ、無かった。ただ、彼には良心があるように思われた。副大統領はペトラに文通を申し込んだ。その年の12月6日、ペトラは、ロバート・ケネディ(Robert Kennedy 1925.11.20.-1968.6.6.)の講演を聴きに行った。講演が始まるや、彼女は興奮し、ケネディが言葉を発する度にスナップのシャッターを切った、とメモに書き残している。
この頃、ペトラの関心は、人道主義から逸脱しつつある合衆国に透けて見える、自分の帰属する歴史社会の過去の姿に向けられるようになっていた。即ち、熱狂に支配され、政治的破綻国家と化した第三帝国時代のドイツについて、ペトラは、戦うべき権力とは、何時戦い始めても早すぎることは無い、と結論する。寧ろ、適格性を欠いた欠陥権力者がその地位に就(ツ)けぬようにすることこそ、それを未然に防ぐことこそ最も重要なことであると宣言するのである。又、暴力機構と化した権力と戦い続ける抵抗勢力の連携と合流のための綱領の必要を説く。そして、現実の指導者として、ヴィリー・ブラント(Willy Brandt 1913.12.18.-1992.10.8.)を挙げ、SPDへの傾斜を鮮明にするのである。
ペトラは集団と組織の併せ持つバイアスの罠に気づく。組織は、階層構造を成し、集団を身分社会に分断する。個人は、さらに、その分断された社会で上下関係に位置付けられた人間関係を生きなければならず、そこには、少なからぬ、協調・同調バイアスがかかる。この社会関係が、人間本来の、自由で自然な、独立した、ありのままの人格を歪(ユガ)める要因になっている、と、ペトラは考えた。それは、この社会が、閉塞的で、硬直した暴力の論理で続いてきたためだ、と彼女は思った。変革が、何故、必要か、と言えば、実にこのためだ、と、彼女は主張する。回り諄(クド)い言い方だが、今、ここで、進路を変更しなければ、次は、より大きな犠牲が要(イ)ることになる。ペトラの進むべき道は決まった。
こうしたペトラの思想形成に大きな影響を及ぼしたのは、アメリカの通俗的な思想家で実践主義のヘンリー・デヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau 1817.7.12.-1862.5.6.)という人物だった。彼は、ある意味、南方熊楠(1867.5.18.-1941.12.29.)と類似するエコロジーの先駆的探求者であり、生活実践者であったので、周囲から理解されず、十分な評価を得られぬまま、世を去ったのであるが、その後、ガンディー(Mohandas Gandhi 1869.10.2.-1948.1.30.)の非暴力不服従の思想にも影響を与えたともいわれ、近年、再評価の声がある。
その思想は、人間解放の思想であり、折から盛んに登場するようになったヒッピーたちの都市空間での自然回帰志向とも相まって、若者の間に広まったものであった。
1968年、首都ワシントンでも、ヴィエトナム戦争に反対する抗議行動が始まり、外国人であるペトラもこれに参加するが、気分は、まだ、そぞろだった。しかし、その浮ついた気分も、直ぐに消し飛ぶ事件が、突如起こった。4月4日、キング牧師(Martin Luther King 1929.1.15.-1968.4.4.)が、暗殺されたのである。衝撃は、全国に及んだ。茫然自失した。その夜は、全都市部が戒厳した。夜が明けても騒ぎは治まらなかった。怒号と涙が溢れた。やりきれない感情が体中を駆け巡るのだった。ペトラは身じろぎもしなかった。彼らの悲しみに同情し、止まらない涙に自分でも訳が分からない状態だった。これから、一体、どうなるのか?
しばらく前から、ペトラはロバート・ケネディとも文通していた。ケネディの外国人学生とのレセプションの席での出会いが切っ掛けだったが、ハンフリーとの交流がものを言い、ペトラはケネディのお気に入りとなった。ケネディとのやり取りの一つに、外国人学生の奨学金補助事業があり、ペトラは、ケネディの助言を得て、基金設立まで漕ぎ付けたという。そういう訳で、ペトラは、ケネディの選挙戦を応援していたのであるが、6月6日、ケネディも暗殺者の凶弾に倒れてしまう。熱狂的な支持者となっていたペトラの衝撃は大きく、悲しみに打ちひしがれて絶望に沈んだ。キング牧師に続く衝撃に、合衆国に留まる力はなく、欧州へと、ペトラは一時帰国することにした。
ペトラには家族と過ごす時間が必要だった。特に、グレースとの時間は、彼女にとって、欠くべからざる時間で、苦しみに耐えるその掛け替えのない命こそ、鏡に投影した自らの真の心の姿を映したものであった。不屈の精神を持つ祖母の存在も無視できなかったが、何れにしろ、ペトラは、彼ら二人が、これまでの自分の人生で、最も得難い奇跡というべき存在であることを思い知った。ペトラたちは、先ず、ヴァティカンで法王パウロ6世(Paul VI, Giovanni Montiini 1897.9.26.-1978.8.6.) の祝福を受けた。法王は、彼らに、明日の家族を見たかもしれない。次いで、ペトラたちは運命のプラハに入った。8月21日、朝、彼女たちの目の前で、暴力が姿を現し、その国を蹂躙(ジュウリン)した。もはや、一時の猶予もなかった。世界は暴力に侵されるが儘であり、本当に結末に向かって、転がり落ちつつあるのだ。ペトラの脳で悲痛な良心の瀕死の叫びが聞こえた。
ペトラがシカゴを語ることは無い。8月の終わり近く、ヴィエトナム戦争に怒り、大人の事なかれ主義を告発するために集結した反体制派の学生・市民・ヒッピーに占拠されたシカゴ民主党大会は、開催前から混乱の中にあり、シカゴ市長リチャード・デイリー(Richard Daley 1902.5.15.-1976.12.20.)は激しい憎悪をむき出しにして、市内に警察・州兵を配置し、その若者たちを力で一掃しようとした。衝突は、市内の至る所で絶え間なく、繰り返され、多数の負傷者が病院に運び込まれ、夜明けになっても小競り合いが続いていた。その様子は、一晩中、全国にライヴ中継され、警察の傲慢さと残忍さが非難の的になった。その恥ずべき醜態をよそに、ハンフリーは民主党の大統領候補(ノミネーター)に正式に選出されていた。その後、シカゴを語ることはタブーとなった。ペトラはヴュルツブルクの実家で事態の推移を見つめていた。
11月、大統領選挙は共和党のニクソン(Richard Nixon 1913.1.9.-1994.4.22.)が勝利し、ハンフリーは敗れ去った。ペトラは、ミネアポリスのリーミントンホテルにスタッフと一緒に詰めていたが、選挙結果が分かるとすぐ自室へ戻った。それからの毎日は、グレースの見舞いと学校行事に明け暮れ、片や、ハンフリーの友人としての交流に費やされた。