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手塚治虫(1928.11.3.-1989.2.9.)先生は筋目正しい、お金持ちのお坊ちゃんとして、何不自由なく、お育ちになった。そこまでは、環境・条件を同じく育った者も大勢いるに違いない。それでは、治虫氏と他の人たちとは、どこが決定的に違っていたのか?それは、実は、治虫氏と心情的に濃密な関係にあった、ただならぬ母親の存在にある。一体、それはどういうことか、というと、これはもう、他に類を見ない独特の関係であり、親子の関係というより、親友とでもいうべき、同胞関係なのであった。そして、これは、ある種の、近代化された信義の関係であり、忠節の関係であった。
治虫氏が大学を辞めて医者の道を諦め、漫画に専念したいと言った時、この母親は、時勢を顧みず、氏の意思を再度、確認するや、直ちにこれを認めたが、それも、この特殊な二人だけの“義”に基づいた友情関係があったればこそ、であった。親の体面であるとか、職業の社会的地位であるとか、将来性だとか、諸々の打算と下心はかなぐり捨てて、母親は、単なる親心をも超越し、治虫氏の唯一の友として、その決断に同意したのである。
尚、この母親の家系には二人の職業軍人、帝国陸軍大将・中将がいて、その血は治虫氏にも流れている。治虫氏は自著の中で度々、自分がいじめられっ子だったことを告白しているが、氏が人生の幾多の逆境を不屈の精神で乗り越え、大成したことは紛れもない事実であり、その精神の根底に母の稀なる家系の特質が潜在し、影響を及ぼしていたと、考えることができる。
だからと言って、治虫氏が軍国少年であったということでは、全く無い。彼は、寧ろ、争いごとを避け、毅然として、事に当たる、正義感の強い性格で、常に弱者の立場に立ち、全体の幸福を心がける理想肌の少年であった。ただ、彼にもマイナス点はある。意外と、舞い上がりやすく、人におだてられては気前良くなってしまったり、見境なく、面倒見がよくなってしまったりする面があり、結果、長じて、虫プロの倒産という事態に直面することになる。本人もこのことを自覚していて、“浮かれ”などと表現していたが、実は、これが無ければ、手塚漫画のヒョウタンツギなど潤いあるキャラクター達も出現しなかっただろう。
治虫氏は差別に対して、人一倍、疑問を感じ、反発していたことは間違いない。彼の作品の大半は、差別がテーマであり、それは、前世紀のキリシタン弾圧を想起させる、彼独特の語り口によって語られる、折り重なった、少数の異端の災厄のエピソードを綴ったクロニクルである。治虫氏が、何故、ここまで激しく、この問題に固執したかというと、治虫氏自身、幼い頃から虐(イジ)めの対象になったことと無関係ではない、と思う。差別され、虐められ、抑圧される者の、心の内を、治虫少年は知っていたのであり、その立場から、宿命的に当事者は逃れられないものだ、ということも、知っていたのである。それ故、彼は、意識的にも、無意識にも、抑圧される者、虐められている者を扶け、励ますためにも、虐げる者に決して負けない、不屈の物語を書き続けるしかなかったのだ。そして、最後は、全体のため、一人哀しく、犠牲となって消滅する(「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」)。
それは、治虫氏本人の生きざまそのものであった。何時、そういう生き方に慧眼(ケイガン)したのか知らないが、それは、しかし、血の成せる業(ワザ)としか言いようがない。彼の一生は、総じて幸福な一生であったと言える。しかし、艱難辛苦(カンナンシンク)の時もあった。その度、彼を支えたのは、やはり、現世でも、後世でも、唯一無二の“義”の盟友である母であっただろう。治虫氏の死は殉職だった、と言ってよいと思う。彼は、修羅の道を歩んだが、最後は、母の許(モト)へ還った。
治虫氏は、優しく、気丈な、ただならぬ母親の、ただならぬ息子だったのである。