HOME > 疾走する Future Shocker 最近の投稿 不思議の国の高度理系人材の不足 2 不思議の国の高度理系人材の不足 1 ショートコラムの憂鬱 2022 part 2 知らず語りのレトリック。 幸運の輪 [wheel of fortune];煉獄への誘い その11 アーカイブ 月を選択 2022年12月 (1件) 2022年11月 (3件) 2022年10月 (3件) 2022年09月 (12件) 2022年08月 (4件) 2022年07月 (3件) 2022年06月 (10件) 2022年05月 (4件) 2022年04月 (2件) 2022年03月 (2件) 2021年12月 (7件) 2021年11月 (7件) 2021年10月 (9件) 2021年09月 (3件) 2021年08月 (10件) 2021年07月 (5件) 2020年11月 (10件) 2020年10月 (6件) 2020年09月 (8件) 2020年08月 (11件) 2020年07月 (12件) 2020年06月 (15件) 2020年05月 (11件) 2020年04月 (3件) 2020年03月 (11件) 2020年01月 (3件) 2019年12月 (3件) 2019年11月 (9件) 2019年10月 (5件) 2019年09月 (5件) 2019年08月 (5件) 2019年07月 (7件) 2019年06月 (6件) 2019年04月 (1件) 2019年03月 (5件) 2018年12月 (4件) 2018年11月 (1件) 2018年08月 (2件) 2018年05月 (2件) 2017年11月 (1件) 2017年08月 (1件) 2017年06月 (2件) 2017年05月 (1件) 2017年04月 (2件) 2017年03月 (3件) カテゴリー カテゴリーを選択 コンピューター AI トピックス ドイツ ネコ 世界 人 占い 哲学 地球 宗教 工学 心理学 手塚治虫 文学 歴史 環境 生活 生理学 真理 社会 神聖ローマ帝国 科学 経済 自我と人格 言葉 言語 近代ドイツ 運命 音楽 疾走する Future Shocker “So What’s (だから、何だ)?” 男は、藪から棒に言った。誰だって、黙ってはいられない。金輪際(コンリンザイ)、こんな出鱈目(デタラメ)に付き合わされるのは、御免だ。男は、突き上げを食らうたびに、このマスコミ、否、世間の、常識の莫迦(バカ)さ加減に反駁(ハンバク)した。世の中の権威という権威、良識と言う良識が、彼を恐れ、彼を貶(オトシ)め、彼を軽んじ、彼を、何故、抹殺しようとするのか、彼自身にも、まだ、良く分かっていなかった。1962年8月、大統領の誕生日に歌を贈った女優が変死し、ウォーホル(Andy Warhol 1928.8.6.-1987.2.22.)は手に取ったばかりのシルクスクリーンに彼女、マリリン(Marilyn Monroe 1926.6.1.-1962.8.5.) の遺影をプリントアウトすることを思いつく。そして、彼の「生と死のシリーズ」は始まった。 大統領(John F. Kennedy 1917.5.29.-1963.11.22.)が死んだのは、それから、1年数カ月後の事である。“So What’s ?” ウォーホルは言い続けていた。1961年の、人を食ったようだと揶揄(ヤユ)された彼のキャンベルスープは再評価され、シルクスクリーンのシリーズは、彼をポップアートの帝王の地位に押し上げた。ウォーホルの独特のポートレートは、ミュージシャンから、ポリティシャン(政治家)まで、多岐にわたる人々の人物コレクションであり、時代を彩ったキャラクター名鑑であった。 ウォーホルとは、何者か?ポップアートを我がものにし、メディアの話題を意のままにして、アートの世界を席巻(セッケン)する、大胆不敵な怪物美術家の素顔を、みんなは知りたがった。しかし、それは、隠された素顔というほどのものでもなかった。彼は、普通のチェコ移民の子であって、ただ、ちょっと変わった虚弱な子だった。広告イラストで身を立てようとしたが、結局、目が出たのは、新しい印刷技術の発明という、片手間の仕事だった。それでも、ウォーホルは、ファインアートという、一端(イッパシ)の美術製作の仕事に自分を懸ける。ここでも彼は失敗してしまうのだが、この失敗が、彼の成功の始まり、基(モトイ)となった。例のキャンベルスープへの転向の切っ掛けである。 1962年から1964年にかけて、ウォーホルは、「死と惨劇のシリーズ」を製作し、自動車事故の現場、ジェット機墜落事故の現場、1964年には、NY万博の野外展示場に「十三人の凶悪犯」を、1965年には、あの視覚に訴えるショッキングな「電気椅子」を展示し、壮絶な死のイメージを執拗に繰り返す。そうなのだ。これは、ロックだ。一つのテーマを何度もリフするあのロックなのだ。同じコードで色彩を変え、同じフォームで映像を繰り返す。それは、音楽と同じ、映像と同じ、アートも同じ、ロックなのだ。ウォーホルをたどることは、アートをなぞるだけでは終わらない。ウォーホルの軌跡は、1960年代を俯瞰し、1970年代の文化崩壊を知る上で、重要なステップなのである。 1963年、ウォーホルは映画監督になった。処女作は「ターザンとジェーンの復活・・・いわば」。奇想天外で突飛(トッピ)な冒険譚。次いで「眠り」。ただ、6時間、眠ったままの男の肢体を撮り続ける、という、何とも、眠くなる作品。「キッス」「食べる」など、生態観察物、「エンパイア」は8時間に及ぶビルのロングショット、と撮影の目的が何なのか、分からない問題作、と批判する向きもあったが、本人は、退屈している時間をやり過ごすことが好きだ。映像は時間つぶしに最適じゃないか。と嘯(ウソブ)くのみで、その実、撮影角度や拡大縮小に拘(コダワ)ること夥(オビタダ)しい演出で、異常なまでのアーティスト魂を発揮する、隅に置けないお惚(トボ)け監督なのであった。 映画人としてのウォーホルを知る人は、日本では多くない。況(マ)して、ジョナス・メカス(Jonas Mekas 1922.12.24.-2019.1.23.)を知る人は、これは、極く希れであろう。メカスは、リトアニア出身の詩人で、アメリカ到着後、映像作家として頭角を現し、一躍、NYの映画界で注目を集めるようになった鬼才であるが、当時のウォーホルについて、メカスは、次のように論評している。「ウォーホルの映画を見て驚くのは、彼の映画作品の全体が、様々な夢を持ち、様々な顔を持ち、様々な気質を持って彼の映画に映っている、様々な人間たちを展示しているギャラリーだ、ということだ。アンディ・ウォーホルは、映画のヴィクトル・ユゴーである。あるいは、少し、病的だが、ドストエフスキーであろうか?」 ウォーホルの映画は、ポップアートをはじめとする、彼の一連の様々なアクションと同様、多分に実験的、感性的なものが多く、ために、未完成で中断されたものも少なくなかった。こうした中で、時代は、“愛”に集約されつつあった。ここで、事件は起きる。1966年夏、ウォーホルは、「チェルシー・ガールズ」を撮影、公開前から話題沸騰の作品で、予約が、文字通り殺到する騒ぎとなった。この映画のクレジットに、ヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas 1936.4.9.-1988.4.25.)の名前がある。 1968年は、ともかく、騒然とした年であった。先ず、ガガーリンが死んだ。キング牧師が暗殺された。嫌な空気だった。6月3日夜、ファクトリーに残っていたウォーホルは、ヴァレリーに正面から撃たれた。32口径の銃口から3発の銃弾が発射され、3発目が、左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。ウォーホルは、デスクの下に転がり込むが、ヴァレリーの32口径は、尚も、獲物に4発の銃弾を発射する。3発が足に、1発が腹部に当たる。フロアはすでに血の海だ。 3時間後、ヴァレリーは自首した。「彼は、余りにも、あたしの人生をコントロールし過ぎた。」彼女の小さな叫びは、誰にも届きはしなかった。ウォーホルはコロンバス病院で5人の医師たちによる5時間を超える手術をもって、絶命の危機を乗り切り、一命を取り留めることに成功した。翌6月5日、ロバート・ケネディが暗殺された。ろくでもない1968年の前半は終わった。 ヴァレリーのルサンチマンとの格闘に、ウォーホルは、辛うじて勝利し、九死に一生を得たが、ウォーホルにとって、今までの、ありふれた愛の儀礼が、思いもよらぬ死の洗礼という形で終焉を迎えたことのダメージは大きく、その後の彼の人生に影を落とすこととなる。そして、あの、アメリカの最も暗い、暑い夏がやってきた。8月も終わろうとする頃、民主党の大統領候補を決める党大会が、シカゴで開かれようとしていた。しかし、街は異様な熱気と興奮と緊張感に包まれていた。警察の車両は物々しく、通りを行き交い、学生やヒッピーは声を枯らして叫んでいた。その夜、起こったことは、今でも語ることはタブーである。1968年は、辛く、重く、苦しく、過ぎていった。 季節は12月になっていた。ウォーホルは病床で悟った。無、だ。それから1年、ウォーホルは静養に努め、体力を回復し、仕事に復帰した。彼は、依然と変わりなく、精力的に、何にでも取り組んだ。雑誌「インタヴュー」も創刊した。1970年、「ライフ」誌は、1960年代に最も影響力があった人物として、「ザ・ビートルズ」とウォーホルの名を挙げた。1972年以降、ウォーホルは、気前良く、ポートレートのオーダーに応じた。夥しい注文を前に、ウォーホルのビジネスは拡大していった。1976年、ソ連国旗のパロディ「ハンマーと鎌」、1977年、「スポーツ・ヒーロー・シリーズ」、1981年、「母と子シリーズ」、「神話シリーズ」など、後期はテーマ別に製作することが多かった。しかし、彼は、多忙過ぎた。1987年2月22日、ウォーホルの心臓は突然、止まった。58歳。 トピックス 人 2020年07月03日 Posted by kirisawa 戻る
大統領(John F. Kennedy 1917.5.29.-1963.11.22.)が死んだのは、それから、1年数カ月後の事である。“So What’s ?” ウォーホルは言い続けていた。1961年の、人を食ったようだと揶揄(ヤユ)された彼のキャンベルスープは再評価され、シルクスクリーンのシリーズは、彼をポップアートの帝王の地位に押し上げた。ウォーホルの独特のポートレートは、ミュージシャンから、ポリティシャン(政治家)まで、多岐にわたる人々の人物コレクションであり、時代を彩ったキャラクター名鑑であった。
ウォーホルとは、何者か?ポップアートを我がものにし、メディアの話題を意のままにして、アートの世界を席巻(セッケン)する、大胆不敵な怪物美術家の素顔を、みんなは知りたがった。しかし、それは、隠された素顔というほどのものでもなかった。彼は、普通のチェコ移民の子であって、ただ、ちょっと変わった虚弱な子だった。広告イラストで身を立てようとしたが、結局、目が出たのは、新しい印刷技術の発明という、片手間の仕事だった。それでも、ウォーホルは、ファインアートという、一端(イッパシ)の美術製作の仕事に自分を懸ける。ここでも彼は失敗してしまうのだが、この失敗が、彼の成功の始まり、基(モトイ)となった。例のキャンベルスープへの転向の切っ掛けである。
1962年から1964年にかけて、ウォーホルは、「死と惨劇のシリーズ」を製作し、自動車事故の現場、ジェット機墜落事故の現場、1964年には、NY万博の野外展示場に「十三人の凶悪犯」を、1965年には、あの視覚に訴えるショッキングな「電気椅子」を展示し、壮絶な死のイメージを執拗に繰り返す。そうなのだ。これは、ロックだ。一つのテーマを何度もリフするあのロックなのだ。同じコードで色彩を変え、同じフォームで映像を繰り返す。それは、音楽と同じ、映像と同じ、アートも同じ、ロックなのだ。ウォーホルをたどることは、アートをなぞるだけでは終わらない。ウォーホルの軌跡は、1960年代を俯瞰し、1970年代の文化崩壊を知る上で、重要なステップなのである。
1963年、ウォーホルは映画監督になった。処女作は「ターザンとジェーンの復活・・・いわば」。奇想天外で突飛(トッピ)な冒険譚。次いで「眠り」。ただ、6時間、眠ったままの男の肢体を撮り続ける、という、何とも、眠くなる作品。「キッス」「食べる」など、生態観察物、「エンパイア」は8時間に及ぶビルのロングショット、と撮影の目的が何なのか、分からない問題作、と批判する向きもあったが、本人は、退屈している時間をやり過ごすことが好きだ。映像は時間つぶしに最適じゃないか。と嘯(ウソブ)くのみで、その実、撮影角度や拡大縮小に拘(コダワ)ること夥(オビタダ)しい演出で、異常なまでのアーティスト魂を発揮する、隅に置けないお惚(トボ)け監督なのであった。
映画人としてのウォーホルを知る人は、日本では多くない。況(マ)して、ジョナス・メカス(Jonas Mekas 1922.12.24.-2019.1.23.)を知る人は、これは、極く希れであろう。メカスは、リトアニア出身の詩人で、アメリカ到着後、映像作家として頭角を現し、一躍、NYの映画界で注目を集めるようになった鬼才であるが、当時のウォーホルについて、メカスは、次のように論評している。「ウォーホルの映画を見て驚くのは、彼の映画作品の全体が、様々な夢を持ち、様々な顔を持ち、様々な気質を持って彼の映画に映っている、様々な人間たちを展示しているギャラリーだ、ということだ。アンディ・ウォーホルは、映画のヴィクトル・ユゴーである。あるいは、少し、病的だが、ドストエフスキーであろうか?」
ウォーホルの映画は、ポップアートをはじめとする、彼の一連の様々なアクションと同様、多分に実験的、感性的なものが多く、ために、未完成で中断されたものも少なくなかった。こうした中で、時代は、“愛”に集約されつつあった。ここで、事件は起きる。1966年夏、ウォーホルは、「チェルシー・ガールズ」を撮影、公開前から話題沸騰の作品で、予約が、文字通り殺到する騒ぎとなった。この映画のクレジットに、ヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas 1936.4.9.-1988.4.25.)の名前がある。
1968年は、ともかく、騒然とした年であった。先ず、ガガーリンが死んだ。キング牧師が暗殺された。嫌な空気だった。6月3日夜、ファクトリーに残っていたウォーホルは、ヴァレリーに正面から撃たれた。32口径の銃口から3発の銃弾が発射され、3発目が、左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。ウォーホルは、デスクの下に転がり込むが、ヴァレリーの32口径は、尚も、獲物に4発の銃弾を発射する。3発が足に、1発が腹部に当たる。フロアはすでに血の海だ。
3時間後、ヴァレリーは自首した。「彼は、余りにも、あたしの人生をコントロールし過ぎた。」彼女の小さな叫びは、誰にも届きはしなかった。ウォーホルはコロンバス病院で5人の医師たちによる5時間を超える手術をもって、絶命の危機を乗り切り、一命を取り留めることに成功した。翌6月5日、ロバート・ケネディが暗殺された。ろくでもない1968年の前半は終わった。
ヴァレリーのルサンチマンとの格闘に、ウォーホルは、辛うじて勝利し、九死に一生を得たが、ウォーホルにとって、今までの、ありふれた愛の儀礼が、思いもよらぬ死の洗礼という形で終焉を迎えたことのダメージは大きく、その後の彼の人生に影を落とすこととなる。そして、あの、アメリカの最も暗い、暑い夏がやってきた。8月も終わろうとする頃、民主党の大統領候補を決める党大会が、シカゴで開かれようとしていた。しかし、街は異様な熱気と興奮と緊張感に包まれていた。警察の車両は物々しく、通りを行き交い、学生やヒッピーは声を枯らして叫んでいた。その夜、起こったことは、今でも語ることはタブーである。1968年は、辛く、重く、苦しく、過ぎていった。
季節は12月になっていた。ウォーホルは病床で悟った。無、だ。それから1年、ウォーホルは静養に努め、体力を回復し、仕事に復帰した。彼は、依然と変わりなく、精力的に、何にでも取り組んだ。雑誌「インタヴュー」も創刊した。1970年、「ライフ」誌は、1960年代に最も影響力があった人物として、「ザ・ビートルズ」とウォーホルの名を挙げた。1972年以降、ウォーホルは、気前良く、ポートレートのオーダーに応じた。夥しい注文を前に、ウォーホルのビジネスは拡大していった。1976年、ソ連国旗のパロディ「ハンマーと鎌」、1977年、「スポーツ・ヒーロー・シリーズ」、1981年、「母と子シリーズ」、「神話シリーズ」など、後期はテーマ別に製作することが多かった。しかし、彼は、多忙過ぎた。1987年2月22日、ウォーホルの心臓は突然、止まった。58歳。