疾走する Future Shocker


“So What’s (だから、何だ)?” 男は、藪から棒に言った。誰だって、黙ってはいられない。金輪際(コンリンザイ)、こんな出鱈目(デタラメ)に付き合わされるのは、御免だ。男は、突き上げを食らうたびに、このマスコミ、否、世間の、常識の莫迦(バカ)さ加減に反駁(ハンバク)した。世の中の権威という権威、良識と言う良識が、彼を恐れ、彼を貶(オトシ)め、彼を軽んじ、彼を、何故、抹殺しようとするのか、彼自身にも、まだ、良く分かっていなかった。1962年8月、大統領の誕生日に歌を贈った女優が変死し、ウォーホル(Andy Warhol 1928.8.6.-1987.2.22.)は手に取ったばかりのシルクスクリーンに彼女、マリリン(Marilyn Monroe 1926.6.1.-1962.8.5.) の遺影をプリントアウトすることを思いつく。そして、彼の「生と死のシリーズ」は始まった。

大統領(John F. Kennedy 1917.5.29.-1963.11.22.)が死んだのは、それから、1年数カ月後の事である。“So What’s ?” ウォーホルは言い続けていた。1961年の、人を食ったようだと揶揄(ヤユ)された彼のキャンベルスープは再評価され、シルクスクリーンのシリーズは、彼をポップアートの帝王の地位に押し上げた。ウォーホルの独特のポートレートは、ミュージシャンから、ポリティシャン(政治家)まで、多岐にわたる人々の人物コレクションであり、時代を彩ったキャラクター名鑑であった。

ウォーホルとは、何者か?ポップアートを我がものにし、メディアの話題を意のままにして、アートの世界を席巻(セッケン)する、大胆不敵な怪物美術家の素顔を、みんなは知りたがった。しかし、それは、隠された素顔というほどのものでもなかった。彼は、普通のチェコ移民の子であって、ただ、ちょっと変わった虚弱な子だった。広告イラストで身を立てようとしたが、結局、目が出たのは、新しい印刷技術の発明という、片手間の仕事だった。それでも、ウォーホルは、ファインアートという、一端(イッパシ)の美術製作の仕事に自分を懸ける。ここでも彼は失敗してしまうのだが、この失敗が、彼の成功の始まり、基(モトイ)となった。例のキャンベルスープへの転向の切っ掛けである。

1962年から1964年にかけて、ウォーホルは、「死と惨劇のシリーズ」を製作し、自動車事故の現場、ジェット機墜落事故の現場、1964年には、NY万博の野外展示場に「十三人の凶悪犯」を、1965年には、あの視覚に訴えるショッキングな「電気椅子」を展示し、壮絶な死のイメージを執拗に繰り返す。そうなのだ。これは、ロックだ。一つのテーマを何度もリフするあのロックなのだ。同じコードで色彩を変え、同じフォームで映像を繰り返す。それは、音楽と同じ、映像と同じ、アートも同じ、ロックなのだ。ウォーホルをたどることは、アートをなぞるだけでは終わらない。ウォーホルの軌跡は、1960年代を俯瞰し、1970年代の文化崩壊を知る上で、重要なステップなのである。

 1963年、ウォーホルは映画監督になった。処女作は「ターザンとジェーンの復活・・・いわば」。奇想天外で突飛(トッピ)な冒険譚。次いで「眠り」。ただ、6時間、眠ったままの男の肢体を撮り続ける、という、何とも、眠くなる作品。「キッス」「食べる」など、生態観察物、「エンパイア」は8時間に及ぶビルのロングショット、と撮影の目的が何なのか、分からない問題作、と批判する向きもあったが、本人は、退屈している時間をやり過ごすことが好きだ。映像は時間つぶしに最適じゃないか。と嘯(ウソブ)くのみで、その実、撮影角度や拡大縮小に拘(コダワ)ること夥(オビタダ)しい演出で、異常なまでのアーティスト魂を発揮する、隅に置けないお惚(トボ)け監督なのであった。

映画人としてのウォーホルを知る人は、日本では多くない。況(マ)して、ジョナス・メカス(Jonas Mekas 1922.12.24.-2019.1.23.)を知る人は、これは、極く希れであろう。メカスは、リトアニア出身の詩人で、アメリカ到着後、映像作家として頭角を現し、一躍、NYの映画界で注目を集めるようになった鬼才であるが、当時のウォーホルについて、メカスは、次のように論評している。「ウォーホルの映画を見て驚くのは、彼の映画作品の全体が、様々な夢を持ち、様々な顔を持ち、様々な気質を持って彼の映画に映っている、様々な人間たちを展示しているギャラリーだ、ということだ。アンディ・ウォーホルは、映画のヴィクトル・ユゴーである。あるいは、少し、病的だが、ドストエフスキーであろうか?」

ウォーホルの映画は、ポップアートをはじめとする、彼の一連の様々なアクションと同様、多分に実験的、感性的なものが多く、ために、未完成で中断されたものも少なくなかった。こうした中で、時代は、“愛”に集約されつつあった。ここで、事件は起きる。1966年夏、ウォーホルは、「チェルシー・ガールズ」を撮影、公開前から話題沸騰の作品で、予約が、文字通り殺到する騒ぎとなった。この映画のクレジットに、ヴァレリー・ソラナス(Valerie Solanas 1936.4.9.-1988.4.25.)の名前がある。

1968年は、ともかく、騒然とした年であった。先ず、ガガーリンが死んだ。キング牧師が暗殺された。嫌な空気だった。6月3日夜、ファクトリーに残っていたウォーホルは、ヴァレリーに正面から撃たれた。32口径の銃口から3発の銃弾が発射され、3発目が、左肺、脾臓、胃、肝臓を貫通した。ウォーホルは、デスクの下に転がり込むが、ヴァレリーの32口径は、尚も、獲物に4発の銃弾を発射する。3発が足に、1発が腹部に当たる。フロアはすでに血の海だ。

3時間後、ヴァレリーは自首した。「彼は、余りにも、あたしの人生をコントロールし過ぎた。」彼女の小さな叫びは、誰にも届きはしなかった。ウォーホルはコロンバス病院で5人の医師たちによる5時間を超える手術をもって、絶命の危機を乗り切り、一命を取り留めることに成功した。翌6月5日、ロバート・ケネディが暗殺された。ろくでもない1968年の前半は終わった。

ヴァレリーのルサンチマンとの格闘に、ウォーホルは、辛うじて勝利し、九死に一生を得たが、ウォーホルにとって、今までの、ありふれた愛の儀礼が、思いもよらぬ死の洗礼という形で終焉を迎えたことのダメージは大きく、その後の彼の人生に影を落とすこととなる。そして、あの、アメリカの最も暗い、暑い夏がやってきた。8月も終わろうとする頃、民主党の大統領候補を決める党大会が、シカゴで開かれようとしていた。しかし、街は異様な熱気と興奮と緊張感に包まれていた。警察の車両は物々しく、通りを行き交い、学生やヒッピーは声を枯らして叫んでいた。その夜、起こったことは、今でも語ることはタブーである。1968年は、辛く、重く、苦しく、過ぎていった。

季節は12月になっていた。ウォーホルは病床で悟った。無、だ。それから1年、ウォーホルは静養に努め、体力を回復し、仕事に復帰した。彼は、依然と変わりなく、精力的に、何にでも取り組んだ。雑誌「インタヴュー」も創刊した。1970年、「ライフ」誌は、1960年代に最も影響力があった人物として、「ザ・ビートルズ」とウォーホルの名を挙げた。1972年以降、ウォーホルは、気前良く、ポートレートのオーダーに応じた。夥しい注文を前に、ウォーホルのビジネスは拡大していった。1976年、ソ連国旗のパロディ「ハンマーと鎌」、1977年、「スポーツ・ヒーロー・シリーズ」、1981年、「母と子シリーズ」、「神話シリーズ」など、後期はテーマ別に製作することが多かった。しかし、彼は、多忙過ぎた。1987年2月22日、ウォーホルの心臓は突然、止まった。58歳。
2020年07月03日
Posted by kirisawa
MENU

TOP
HOME