ショートコラムの憂鬱 2020 part 5  子供たちへの物語り a story for all its children


哲学は思弁の歴史である。斯くも鮮やかな堕落。歴史は恥辱に塗(マミ)れ、後退(ズサ)りできず、前進あるのみ。何時しか、事象の細分化の迷宮へと入り込み、その意味付けの言葉の発見にばかり夢中になり、総体としての全体構造を見失ってしまったところで、脳解析による科学的データが提示され、哲学の子供じみた幻想の時代の幕は下りる。しかし、何の意味もなかったのか?歴史的精神構造における意味はあった。又、社会変革の先駆的動機として意義もあった。ただ、今となっては、装飾文化的な価値しか、価値はない。普遍的な価値と言うものは、元々、宗教や哲学に依拠しない。それは、自然や宇宙それ自体に表象される。それを感じる人自身に依拠するのである。

突き詰めていくと、心と心よりずっと深いところで、ボクたちは繋がっていて、それは男と女であることよりずっと、親密な、ほとんど一体の、ソウルフルスピリットよりも深い、深い、深い感覚の覚醒なのだ。こんなことがあるだろうか?末那識(マナシキmanas;自我)を遡り、阿頼耶識(アラヤシキalaya-vijnana;潜在下の無意識)をも蹴散らして、本能そのものに到達したのか?もはや、没我ではない。これは、意(イ)、でもない。何だ?何、でもない。ゲノムか?ATGCか?タンパク質の初源形質アミノ酸の原型に帰順したのか?ボクたちは、繋がっている。深い、深い、底知れぬ、深淵の海を巡り。そうか、そうなのか、命だったのか!命の海で。ボクタチハ繋がっている。

ヒトは理屈ではない。観念的な物言いでも、科学に裏打ちされようとも、実は、目の前の現在にこそ、全てがある、と言ってしまえば、目先の事だけに、と言われてしまうが、先ず、自分の目の前のことに取り組むのが、多分、最良だろう。解決の目途(メド)の立たない議論を繰り返すほど愚かなことは無い。データの照合も儘(ママ)ならないような問題を優先するには、その重要性と緊急性を明示してもらわねばならない。議論の余地は残しておかねばならないが、柔軟性に欠けると、議論は膠着するので無理はしない。

遊びは大切。日本には、間、という考え方がある。という人がいたりするが、アジアやロシアにも、そんな感覚の考え方はある。多分、中国や、ヨーロッパにもあるかもしれないが、日本の場合、タイミングを外す、のではなく、正に、間を置く、時間を空ける、のである。それは、つまり、動作に余裕を持たせることを意味する。これが、実は、日本の言うところの、遊びの神髄を言い表しているといってよい。即ち、人生での、遊びとは、時間的に、余裕をとって、いろいろ研鑽(ケンサン)し、応用の利く人間になる寄り道、ということになる、かな?もっとも、日ごろの遊びも勿論、雑学だけでなく、知らない人たちや異性や別世代の人とも交流し、多角的な人間関係を作ることも、遊びのうちかもしれない。
2020年07月02日
Posted by kirisawa
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