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まねき猫は、諺(コトワザ)とは違う。それは、実存在であり、幸運を呼ぶ人形、といった類いの装飾品であり、その容態は、寧ろ、妖怪に近い感じがする。一体、どんな怪体(ケタイ)が猫に投射され、デフォルメされると、係る変様体になるのか、は判然としないが、これにも、謂(イワ)れ因縁はある、というので、先ずは、それを紐解いてみようと思う。
後ろ足で身を立て、左右、いずれか一方の前足で、おいでおいでの、手招きと思われる仕草でポーズをとる猫。主に、土製か、張り子、陶器などで作られ、子供用には貯金箱として売られており、他は大体、客商売の店先や一般家庭に縁起物として飾られるのが普通である。
さて、由来だが、巷に、諸説あるが、はっきりしない。江戸中期、吉原の遊女薄雲太夫の飼い猫が盛んに手招きの真似をし始めたことが、端緒だったとも、天明の頃(1780年代)、遊女屋の「金猫銀猫」が店頭に、金銀で縁取った、怒(ド)でかいネコの飾り物を置いたのが発端だった、とも言われているが、真偽のほどは定かではない。さらに、尤(モット)もらしい説として、三味線を弾く芸者(当時、“ねこ”と呼ばれた。)に良い客が付くようにと、花街の縁起物として作られるようになったとも言う。それというのも、猫には不滅の霊魂が宿っており、その霊力に及ぶものなし、という俗信が広く信じられていたからであって、開運祈願に猫の飾り物を正月に買い求め、店頭などにおいておくようになったのも、そのためなのである。
如何にも、然(サ)もありなん、といった風情(フゼイ)ではあるが、猫の不思議は、まだ続く。大体、猫が三本足で、片方の前足を耳のあたりまで挙げているという姿態は、余りにも自然でない。しかし、このポーズが、極めて大切で、この前足の右と左にはそれぞれ、ご利益(リヤク)がある。つまり、何故だか解らないが、右足ならお金を、左足ならお客を招来させる効力を持ち、もし、挙げている足先が耳より上に上がっていれば、一層縁起がいいのだと言う。だから、稀に両前足を万歳しているものまである。又、目を黄色と青色に塗り分けている「福ねこ」と呼ばれている猫の置物があるが、これは黄色が金、青色が銀、ということで、別称「金目銀目」とも言われ、まねき猫同様、商売繁盛に繋がる縁起物として珍重されている、とのことである。
まねき猫は、要するに、この日本に生きる一般庶民の細(ササ)やかな幸せを願う招福のシンボルであったことは疑いようがない事実である。それは、江戸期から現代まで続く日本の庶民信仰の本流の一つであったと言っていいのかもしれない。中世から江戸期の初めにかけ、所謂(イワユル)、妖怪伝説の原型が各地で創出されたが、それは、戦乱の時代が生んだ暗く、辛い、苦痛の記憶によって、深く傷ついた庶民の心の反映であり、その折り重なった恐怖から生じた負の教訓であった。妖怪、猫又(初めは、山猫と家猫との混同から合成された怪物。中国の仙狸という猫の妖怪を原型とする。後世のものは、人間への怨念から悪行をする年老いた猫。)も中世の暗黒から生まれ、江戸時代まで半ば信じられ、怖れられた。しかし、家猫の数が増え、野良猫を飼う庶民が現れると、佐賀鍋島家のような武家の化け猫話もお芝居のただの演目となり、妖怪変化・魑魅魍魎(チミモウリョウ)の恐怖苦悩の物語は過去に追いやられ、猫はネズミ捕りの福の神、という益獣としての側面が見直され、又、寺社に飼われる猫が増えたことから、猫檀家などに見られる縁起話と開運招福とが結び付き、加えて、江戸中期からは、商業活動が活発化したこともあり、太平の世の安寧の心地が反映して、まねき猫という素朴で素直な庶民信仰が自然に醸成されていった、と考えられる。
まねき猫は、その後も、衰えることなく、今日のボクたちの暮らしに、しっかりと根を下ろしていると言えよう。この日常性の文化的意義を考えてみるに、日本の現代の、一段低く見られがちな、モッタイナイ・カワイイ文化に、どこか通底するものがあるような気がするが、どうだろう?日本文化には、確かに、上流社会を中心とするモラリティーの高い、品格ある文化が厳然とあり、他方、庶民の、庶民の持つ矜持(キョウジ)に裏打ちされた遜(ヘリクダ)りの、又は、謙遜の文化というものが、同時に、しかも、重層的に、並行して存在してきたように鑑(カンガ)みられるのであるが、如何がなものであろうか?まねき猫をそうした観点から見直してみると、庶民のほのぼのとしたくつろぎのマスコットとして歩んできた歴史的道程は、ちょっと感動的でもある。
まねき猫が福を招く。さて、最後に、言葉の意味について、少し考えてみたい。招く(真・似・く)、とは、どういうことであろうか?それは、意としては、寄せる、ということであろうが、つまり、自分のそばに移動させようとする、ことであろうが、語源的に考えてみると、その底意が、本当の意図するところが明白となる。即ち、真、とは、まことなる、であり、似、とは、男のみたまや(自分の真の姿)、のことである。く、は、動詞の下一段活用の終止形なので、問題ない。ここで問題なのは、似、の具体的な意味と、真、との関係である。このまま、解釈すれば、似、は何も覆い隠さぬ姿、赤心潔白の鏡に映した姿、ということになり、真、との関係も、誠をもって、ということになる。これは、招くという行為は、心の底から誠実無比の応接の心構えで行われなければならない、要するに、真心だ、という含意があることを明確に示している。この解釈が、正しいか、どうか、は、より細密な検討を要するところではあるが、ここでは、略す。こうした言語学的分析は、言葉の意味の持つ潜在性を明らかにする上で極めて重要ではあるが、始めると、際限がない。(何故なら、今は、漢字一文字の意味を検討・吟味しただけだが、次には、音一つ一つについての意味を吟味しなければならず、さらには、その音の民族的発音と意味の属性を推論するという作業が続く。)だが、まねき猫、という物理的存在が、より明確に、有機的に、血の通った社会的存在として認識されることになれば、それでいいのである。
と、そういう訳で、「まねき猫」は、これで、おしまい。
今日は、いかにも庶民的な話題を、ネットでは探せないアナログな資料を駆使して、お届けいたしました。次回、猫物語、よろしく。