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こう仰々しく説明するより、比較的よく知られているものに、「イエスの聖骸布(セイガイフ)」があるので、この顛末(テンマツ)について有体(アリテイ)に話をすることにしよう。これは、イエスの遺骸を包んだ布である。イエスは手足に釘打たれ、茨の冠を被せられ、両脇に槍傷を受け、全身、血に塗(マミ)れた。そして、遺体は、アリマタヤのヨセフによって、「浄き亜麻布」(ヨハネ伝19章40節)に包まれ、埋葬された。その布は、イエス自身の血によって、全身が転写され、聖骸布と呼ばれることとなって、今日に伝えられるのである。
1204年、この布はコンスタンティノープルで十字軍の兵士に目撃された。それから150年余り、姿を見せなかったが、1353年、突然、パリ東南のトロワ市近郊のハレに現れるや、ケルン、ブザンソン、プリウード、そして、ベルギーのリエールと、聖骸布と称する布が次々と出現し、どれが本物か、騒動となる。この騒ぎは、曖昧なまま、終わるが、同じような事件は、その後も、後を絶たなかった。
斯くある聖骸布の中で、今、最も興味をそそるのはトリノの司教座聖堂に保管されている聖骸布で、幅1.4メートル、長さ4.1メートル、全面と背面にイエスの全身と思われる写像が投写された、意外と大きなものである。この布には、1532年のフランスのシャンペリーで起こったサント・シャペルの火事に纏(マツ)わるちょっとした事件(即ち、その火災の際に布の折り目に焦げ目がついてしまったこと)が、ラブレーの「ガルガンチュア物語 第一章」の挿話に出てくるというオマケのエピソードも付いている。さらに下(クダ)って、1898年、宗教美術展での公開が話題を呼び、評判が高まると、真贋(シンガン)の是非を確かめよう、という声が野火のように広がり始めた。しかし、時代は世界戦争の最中(サナカ)となって、有耶無耶(ウヤムヤ)のうちに時は過ぎ、ようやく、落ち着きを取り戻した1970年、写真誌「パリ・マッチ」が「トリノの聖骸布」を特集、再び脚光を浴びた、と思う間もなく、忽(タチマ)ち、それが、14世紀に造られた複製(コピー)にほぼ間違いないことが、科学によって明らかとなってしまった。
350年、聖骸布は、ローマで展覧された記録がある。この時、数多(アマタ)の複製が生まれた。その元本である本物の聖骸布は、いつしか、歴史の彼方に消え失せてしまっていた。
さて、以上が聖骸布の話だったが、実は、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂には、イエスの顔を映した聖顔布、なるものが存在するという。体を包んだ布があるのなら、顔を包んだ布があっても不思議ではないか。しかし、そう単純な話ではない。この聖顔布、生前のイエスの顔が写っている、というのである。これは、些(イササ)か、語るに落ちるストーリーだが、これを話さないではスッキリしない。つまり、こういうことだったのである。
その、運命の日、イエスは、体に食い込む十字架を負い、茨の冠の棘(トゲ)の痛みに苦しめられ、血と汗と暑さに喘(アエ)ぎつつ、ゴルゴダ(アダムの頭蓋骨の意)の刑場に向かって、よろめき、倒れこみながら進んでいた。取り巻いている群衆の中に、女はいた。女は、イエスを知っていたのか、知らなかったのか、それは分からない。女は、目の前にやってきた、血と汗を顔から噴き出して涙する男の、無残な姿を見かねて、自分の頭からヴェールを取り、駆け寄って、それを差し出した。イエスは、束の間、十字架を肩から降ろし、そのヴェールで疲れた顔を拭いた。そして、男は、再び、十字架を負い、女の前から去っていった。ヴェールは女の手に残り、イエスの顔はそこに印された。
女の名はヴェロニカと伝えられるが、その正体は特定できない。ヴェロニカという名は、フランス語でいう聖顔布、ヴェロニックと語源的に同種のものであろうし、英語のヴァーニクルとも同根の言葉と言っていい。即ち、女の名前そのものが、“聖顔布”ということになり、従って、この女性は、明らかに、名も無き一市民であった、ということになる。敢えて、真理に近い言葉を推察するなら、それは、ラテン語のヴェルス・ニス(verus nis;真の終わり)、あるいは、ギリシャ語のヴェラ・イコン(vera ikon;真の姿)となるであろう。
中世以降語られる聖ヴェロニカの物語には、ローマ皇帝ティベリウスをはじめ、多彩な人物が登場するが、架空の物語と言ってよく、年代的にも符合せず、聖顔布自体の信用にも疑問符が付くのもやむを得ない。彼女は、最終的にフランスに赴き、聖母マリアの聖遺物と共に聖マサイアスと暮らし、一生を終えた、ということになっている。けれども、聖ヴェロニカの名は、カトリックの殉教者リストには含まれていない。記録によると、聖顔布は、1870年、ローマのシルヴェストリス教会からヴァティカンに移され、現在に至っている、とのことである。