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廃墟に、雨が降る。雨は、強く、弱く、降り続ける。そこには、以前、アジサイ(紫陽花hydrangea, 花言葉;無情heartlessness )の花咲く小都市の町があった。人影も疎(マバ)らな、静かな佇(タタズ)まいの、穏やかな街並みが続く山裾(スソ)近くの町。何の変哲もない、長閑(ノドカ)な町だった。そんな、よくある風景の中に埋もれているだけだった町は、気まぐれな時間のポケットから抜け落ちて、苛烈な運命の渦中に抛(ホウ)られ、救いのない破壊と虐殺を目撃する。時間は止まり、記憶は残らず、砂時計は倒れて、灯りは消える。闇が、全てを覆った。
それは、辺境の、第3世界においても、人間の愚行の悲劇は免れないことの証(アカシ)である。歴史から見捨てられてしまった人々の、剰(アマツサ)え、報道されることもない、忘れられた、名も無き人々の墓標の、呻(ウメ)き声が、地上に絶えることはない。
人類の歴史は、戦争の歴史である、と言われるが、正しくは、殺戮(サツリク)の歴史である。命を奪う、という行為に呵責(カシャク)はないのか、と責められれば、一概に肯定も否定もできなかったのが、過去の人だろう。もっとも、そんな場面に遭遇すれば、現在のボクたちでさえ、判断に迷うケースがないわけではない、と考えるのが、本当のところではないか。情けないことに、それが、罪であると自覚していながら、何らかの理由付けをして、その行為を擁護し、自己弁護の口実を見つけようと画策する自分に幻滅していながら、それでも自己を正当化しようとする自分がいる。恥辱ではなく、汚辱である。しかし、現実には、過去においては、それは、勝利、と呼ばれた。勝利、である。戦争に勝利する、ということは、血の汚辱に塗(マミ)れることを意味した。その意味を、彼らは、栄光、と呼んだ。
戦争とは、人間の複数の集団同士が、武器を携行して、物理的に、あるいは心理的に相手を圧迫し傷害し、殺害する暴力行動であり、その結果、勝利すれば、相手との利害関係を清算し、対価を得ることが認められてきた。戦争の本質は争奪にある、と結論する論者も多いが、それは違う。もっとも、初期段階の対立要因を、食物の争奪、と位置付ける考え方があるが、それは、飢えを理由とするものであろうか?仮に、そうであったとしても、争いの動機としては、まだ直接的動機とは言えない気がする。何かを奪い取ろうとするには、それ相当の欲求と同時にエモーショナルな何らかの衝動(動機)が必要ではないだろうか?人間は、単に欲求だけでは行動しない。理知的な動機として、報酬系上の有価値判断は必ずあるし、当然、情動的にも、妥当な感情の変化があって然るべきだろう。ここで、争奪戦の状況を考えてみた場合、暴力行為を実行するのは、理知的判断よりも、実は、情動的・非論理的判断による時の方が確率的に多いのではないか、と推定することが妥当なような気がする。
戦争を廃絶することは、今世紀まで、ほとんど、不可能であるかのように考えられてきた。それには、もっともらしい理由が山ほどあり、成す術がないかのような暗黙の合意がどこかに存在していたが、核兵器禁止条約が公の議題に上ってから、空気は一変した。今や、戦争そのものを廃絶できる日が、いつか必ずやって来る、と確信できる根拠となる人間の清心を意識できる時代となった気がする。その日が、明日にでも来るようなことは、さすがに、考えられないが、それでも、遠くない将来、それは実現してもおかしくはないように思う。希望的には、少なくとも、300年以内だと、うれしいような気がする。
戦争の主因を、所有の侵害にある、とする説を唱える者がいるが、それは、何の関連もない。根も葉もない説だ。何故なら、所有の概念の定義を考えてみれば、すぐ分かる。所有とは、時間上、一定期間保有した状態であり、戦争のように時宜を待たずに争奪し、破壊する場合、そもそも所有権の移転は成立しない。確かに、戦争行為には、何らかの利害が背景にあるのは明らかであるが、それ以前にこれを実行する動機には、感情的な蟠(ワダカマ)り、つまり、ある種の不快感の発生が必然である。この不快感が縄張りの侵害という被害者意識から発生していることは留意しなければならない。それが妥当なものであるか、どうか、は問題ではない。それが、殺戮の引き金を引く動機に発展する、背中を押すことになるか、どうか、ということが問題なのだ。つまり、戦争の原因は、経済問題でもなければ、戦略的要因でもない。それらは、御膳立てに過ぎない。それは、或る種の思い込みに執着した人物の情動的な、非論理的な感情的行動によって開始される。彼は、日常では、普通の人であるかもしれない。謹厳実直で、誠実な男(女)かもしれない。しかし、そんなことは、問題ではない。もし、彼が、忍耐の限界だ、我慢できない、と憤懣(フンマン)を抱え込み、その不快感が絶頂に達する時が来たら。その時、彼が、その席に座っているとすれば、そのスイッチを押すのだ。その理由は、本当の理由は、彼にしか、解らない。それが、核のボタンであったとしても。
殺意が、すぐ、戦争に発展する、と言うのは、余りにも、短絡、性急な議論ではないか、と批判する人がいる。しかし、ここで問題としているのは、所謂、殺意ではない。殺意は、既に意思決定された決意の事であるが、ここでいうのは、鬱積(ウッセキ)した感情によって生み出され、心に堆積した不快感の事であり、これが、決断にどう作用するか、ということである。端的に言って、どんなタイプの当事者でも、冷静に、前頭前皮質の決定によって、戦争を始めることなど、あり得ない、と言っていい。寧(ムシ)ろ、この不快感によってこそ、その判断は為されるのであり、その仕組みを考えてみると、以下のようなことが思い当たる。
即ち、思考プロセスがいかに複雑であったとしても、この不快感のような情動によって、本能的、あるいは、生存欲求的、割り込み介入が生じれば、全ての理知的、かつ、綿密な分析予測プログラムも、ご破算である。従って、如何なる既定路線が集団で準備されていたとしても、全く意味をなさない。これは、意思決定のシステムが単路決済に集約されているケースがほとんどであることから考えても、多分、例外はないだろう。戦争のような、権力意思決定では、集団議決は時間的にも、普通採用しない。つまり、戦争の場合でも、その決定は、最終的には、個人の胸先三寸なのである。それも、その時の気持ちの問題なのである。
ヒトの行動は、あるいは、決断はあまり、理性的なものとは言えない。普段の選択は、大体、打算的な、自分にとって、有利不利と言った計算付くの思惑に左右され、正邪善悪といった公明正大な価値基準に基づいて判断されるわけでは、凡そ、無い。この事実からして、明らかに、決断のシステムが、例え、前頭前皮質によって行われるといっても、そこには、理性という仮面の裏に隠された、本能的狡さと浅ましさとが、既に、剥き出しになっている。この明ら様な欺瞞こそ、情けなくも、哀しい、ヒトの本性(ホンショウ)であり、原罪の正体だったのだ。
要するに、ヒトというシステムは生命体である限り、本能という、生命維持を優先するオペレーションから離脱できないのであり、それは、取りも直さず、セルフ・コントロールに限界があることを示している。だが、ヒトは、これを克服すべく、様々な工夫を凝らしてきた。それは、一つには、掟であり、法であり、宗教であり、とにかく、枠を嵌(ハ)めて、箍(タガ)を締め、なんとか、その欲望の根源である本能を制御しようとしてきたのであるが、結局、それらの試みはうまくいかなかった。本能には勝てないのである。近代になり、モラリストによる道徳尊重とか、全人教育による人格形成なども論じられたが、どれも切り札とはなり得ず、未だ、情動や本能を制御する糸口は見つかっていない。従って、ボクたちの戦争の根本的な根絶のポイントとなる本能の抑制は、まだ、ケムに巻かれたままなのである。
くどくどと、戦争と気持ちの問題について述べてきたが、ここまでこの問題に拘(コダワ)ってきたのは、いくら、個々人の資質ということを吟味したとしても、ヒトである以上、システム障害(ヒトでも壊れます)だけでなく、いろいろな不測の事態というものは、いつか、必ず、起こるものである、という厳然とした事実が、少なくとも確率上、予定されていることを忘れてはならない。それを抜きにして、未来を、戦争を論じるわけにはいかない。今回取り上げた、ヒトの気持ち、という不確実・不確定性の極み、その実体である本能・生存欲求・無意識・潜在意識、という、未解明の事象が、ボクたちの未来を握っている、という現実に、目を瞑(ツム)ってはいけない。でも、これが喜劇でなくて、何だ!