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ホーム。不釣り合いな光景に出くわすこともある、不釣り合いな空間。
しかし、そこは終着駅という、人生の運命的帰着に相応(フサワ)しい施設であるといえる。何故なら、人生とは、必然的偶然の積み重ねに他ならないからであり、他律的で避け難い事象に大部分が左右され、意の儘(ママ)に時を経(フ)ることなど到底望めない。人生は苦難の連続と捉えれば、そこまで生き延びたということは、それだけで十分満足すべきことであり、幸運だったといえるだろう。ボクたちは、その人生という列車に乗り、乗客として、臨終というその本当の終着まで、旅をする旅人であるとも言える。それは、自分が、世界を表象する時空間連続体のヒトの歴史の一部を構成する存在であることの証(アカシ)でもあり、より想像を逞(タクマ)しくすれば、尽きることの無い夢幻(無限)の時空の航行者である、もう一人の意識下に潜在する「時間」としての自分という存在に気づくための儀式のようなものと考えても良い。係る空想も自由の賜物である。だからこそ、芭蕉などは、「時間」を、旅人と、仮想したのだろう。
「月日は百代の過客(クワカク)にして、行きかふ年も又旅人也。」
ホーム。奇怪な人間模様。過ぎ去りし日々を想えど。
男は、確信をもって言う。自分には、親族などという者は、いない。それは、当の昔に、物理的にも、精神的にも、消え失せてしまって、今、時々、お愛想(アイソ)を振り撒きにやって来るのは、ただ、自分の財産目当てのご機嫌取りに過ぎない、凡そ、これまで、余り会ったこともない連中なのだ、と。無論、彼らと、心の交流など、有るはずもなく、それを望むべくもない、と言う。だが、彼らは、真にこの男の血族であり、曲がりなりにも、定期的に見舞いに来る律儀な人々、という仮面は被(カブ)っては、いる。その正体も動機も知る術(スベ)はない。
愛は擬態?しかし、それは、機能として確立されている。どんな生命にも、多分。
ヒトの脳には、同情・共感システム(思いやりシステム)を基礎に、より拡張的な他者理解システムを構築していくプログラムがあり、それは成長と共に、実体化する。又、自己検証システムは、脳全体を統御するスーパーバイザーの役目を担うシステムで、行為の有効・無効、正邪善悪、損得勘定の結果を判定し、反省・検討をすることをその目的としているが、これは、反復学習効果によりその精度を上げていくシステムであると考えられる。