You need me, perhaps, or I need you chapter 4


猫も杓子(シャクシ)も。

猫が強(シタタ)かで、容易ならぬ生き物であることは、前章でも証明済みである。この、屈強で柔軟な生き方がどうして、猫の身についたのか、というような、史的なあらましについて、少しく考えてみようと思う。

そこで、ここは、時間をちょっと遡って、古代日本にタイムスリップするところから始めてみたい。そもそも、家猫になるような小型の猫が日本列島に存在したか、と言うと、それは甚(ハナハ)だ、疑問である。俗に、ヤマネコと呼ばれる種は、各地に散見される資料があるが、ボクたちが慣れ親しんでいる普通の猫に該当するような種について、書き記したものは一部の風土記にはあるが、断片的であり、信憑性(シンピョウセイ)に欠ける。

時代が下ると、百科全書的な文書が現れる。その一つ、延喜年間の981年に編纂(ヘンサン)された、深根輔仁校訂の薬草事典「本草和名」には、猫について、その名前の由来やら、古来から、ネズミの駆除に功ある益獣であったことなどが記されていて、確かに、これで、猫が、如何にも、人間の生活に馴染みある存在になってきた様子が分かるのだが、その猫の正体は、と言うと、結局、不明のままで、原種が日本の固有種なのか、いつ頃、どこで、小型化したのかなど、全ては、藪の中なのである。

しかし、奈良時代の文献にその答えの一端を示唆する記述がある。中国との交流が始まった日本にとって、最も重要だったのは、輸入してきた経典・文献の保存管理であり、それは先ず、ネズミの被害から、それらを守ることだった。従って、海上輸送中から、格納倉庫に出没するネズミを駆除するため、十分訓練された中国産の猫も同時に乗船輸入する必要があったのだ。このような猫たちは日本に着いた後、朝廷、寺社の文書管理だけでなく、調理場や食糧庫にも、配置されて、ネズミの駆除に使われ、その後は、次第に、一般の家庭へも流入していったのではないか、と思われる。やがて、時代は移り、平安期の王朝文学の時代に入ると、その日記や物語のそこ、ここに、猫たちが顔を出すようになってくる。遂には、数は、本当に、少ないけれど、天皇や女御にも愛でられる愛玩動物になった猫なども現れ、猫のステータスは一段と上がったのである。

ところが、この一握りの猫たちが、安穏と、優雅に暮らす日々が、いつまでも続くほど、歴史は微睡(マドロ)んではいなかった。日本に動乱の400年がやってきたのは、それから間もなくのことである。源氏平家から、北条足利織田豊臣、そして徳川と、戦乱は止めどなく続き、混乱の渦に巻き込まれ、行き場を失った猫たちは、人々と共に、死屍累々(シシルイルイ)の地獄絵図の只中を、身を寄せる場所を求めて、誰とも知れぬ何者かに、一縷(イチル)の望みを託し、彷徨(サマヨ)い歩くしかなかった。しかし、時代は、目まぐるしく変転し、奇跡のように太平の世がやってくる。

血なま臭い戦乱の世は終わり、打って変わって太平の御世となった江戸、それまで高価な動物であった猫も、町人文化の進展と並行して、庶民にも手の届く値段となって、家猫の増加となり、その数は続々と増し、遂には、野良猫となって路地裏に身を落とすものも出る始末、この御時世、庶民が猫を飼うのも当たり前となった寛文8年(1668年)、世に出た本が、「猫も杓子も」という言葉が出てくる、仮名草子「一休咄」(イッキュウバナシ)である。その一節、「生れては死ぬるなりけりをしなべてしゃかもだるまもねこもしゃくしも」(Everything born is die including Buddha, Daruma, cats, scoops. )とは、生まれたものは、全て死ぬ、という諦観というか、諦念というか、一つの悟りを表明したものであり、動かしようのない現実を受け入れるしかない人間の哀れさ・寂しさ(わび・さび)を語った言葉なのであるが、この末梢の「猫も杓子も」という部分だけが抜き出され、しかも、最近は、本来の、だれでも彼でも、といった意味からも逸脱し、何故か、「みんな、おんなじなんだよ」的なニュアンスで使われているのである。これも、近頃、一般化したダイバーシティーの意味を取り違えているせいであろうか?

ところで、この「一休咄」に出てくる一休とは、ご存じ“一休さん”、こと、一休宗純(明徳5.1.1.(1394.2.1.)-文明13.11.2.(1481.12.12.))という、室町時代の臨済宗(禅宗の一派)の僧侶のことである。この草子で、頓智(トンチ)話の小僧さんとして人気を得ただけでなく、意味深な尊い訓話も語るお坊さんとしても、その名を知られる存在となった一休は、生前、様々な奇行で、世情を騒がせた風狂人としての側面もあり、歴史的にも、稀有(ケウ)な存在であって、その逸話は色々あり、最も有名なのは、正月の洛中を髑髏(シャレコウベ)を杖に掲げて、「ご用心、ご用心。」と唱えて練り歩き、人間の避けては通れぬ有限の命の尊さに、今一度、思いを及(イタ)せよと、お祝い気分で気の緩んだ人々に、争乱のさらなる危険が迫りつつあることを教唆し、警告した、という事件だろう。これ一つとっても、ただならぬ人物であったことが知れるが、こうした行動の裏には、この臨済宗の本宗である禅宗の影響が色濃く反映されているのである。つまり、一見、常軌を逸した戒律を無視したかのような行動も、悟りの境地の発現と、禅宗では捉えられ、それも、禅定(ゼンジョウ)(心が静かに安定して動揺せず、悟りが得られた状態)の一つの形態である、と解釈し、それを風狂と呼ぶ、という。如何にも、宗教という感じである。

猫からは、話が離れてしまったが、脱線序(ツイデ)に、“ダルマさん”についても、ちょっとだけ触れておこう。この成句の“しゃか”の次に出てくる“だるま”とは、正に、今出てきた、禅宗の開祖として知られる達磨、ボーディ・ダルマ、という、インド系だか、ペルシア系だか、本当は素性のよく分からない仏僧の事で、歴史書によれば、5世紀から6世紀ごろ、中国各地を放浪遍歴した、とされている人物である。日本では、“ダルマさん”の名で知られ、民間信仰の対象になっているが、実は、この草子が出るだいぶ前から、禅の修行の象徴的人物として、僧侶の間ではもちろん、一般にも、座禅の大家という触れ込みで絵画にも描かれるほどの人気者であった。禅は、肉体と精神が常に一体となっているとするため、“死ねば成仏(ジョウブツ)”、“魂が残る、などということは無い”、と教えているので、基本、“精一杯、生きよ”、と言うのが、達磨の教えであり、それは、浄智妙圓、體自空寂、という八文字に凝縮されているような気がする。

最後に、杓子について。杓子は柄杓(ヒシャク)を小型化したものである。その柄杓は、最初、瓢箪(ヒョウタン)を二つに割ったものを使っていたというから、ある意味、瓢箪は、食器・什器の原型であったと言える。杓子から杓文字(シャモジ)ができるのは、ずっと後で、米を炊くようになってからである。江戸前期、町には食事処も出現し、民家も含め、杓子の無い家はなかっただろう。と、そういうことで、「猫も杓子も」、これで、おしまい。

今日は、ちょっと壮大な歴史物語と知らなくともいい豆知識を開陳(カイチン)して御覧に入れたのだが、如何がだっただろうか?相変わらずの地に足のつかない猫物語、性懲りもなく、次回に続く。
2020年04月27日
Posted by kirisawa
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