HOME > ルチア、その伝承と構図、あるいは、神の摂理 最近の投稿 不思議の国の高度理系人材の不足 2 不思議の国の高度理系人材の不足 1 ショートコラムの憂鬱 2022 part 2 知らず語りのレトリック。 幸運の輪 [wheel of fortune];煉獄への誘い その11 アーカイブ 月を選択 2022年12月 (1件) 2022年11月 (3件) 2022年10月 (3件) 2022年09月 (12件) 2022年08月 (4件) 2022年07月 (3件) 2022年06月 (10件) 2022年05月 (4件) 2022年04月 (2件) 2022年03月 (2件) 2021年12月 (7件) 2021年11月 (7件) 2021年10月 (9件) 2021年09月 (3件) 2021年08月 (10件) 2021年07月 (5件) 2020年11月 (10件) 2020年10月 (6件) 2020年09月 (8件) 2020年08月 (11件) 2020年07月 (12件) 2020年06月 (15件) 2020年05月 (11件) 2020年04月 (3件) 2020年03月 (11件) 2020年01月 (3件) 2019年12月 (3件) 2019年11月 (9件) 2019年10月 (5件) 2019年09月 (5件) 2019年08月 (5件) 2019年07月 (7件) 2019年06月 (6件) 2019年04月 (1件) 2019年03月 (5件) 2018年12月 (4件) 2018年11月 (1件) 2018年08月 (2件) 2018年05月 (2件) 2017年11月 (1件) 2017年08月 (1件) 2017年06月 (2件) 2017年05月 (1件) 2017年04月 (2件) 2017年03月 (3件) カテゴリー カテゴリーを選択 コンピューター AI トピックス ドイツ ネコ 世界 人 占い 哲学 地球 宗教 工学 心理学 手塚治虫 文学 歴史 環境 生活 生理学 真理 社会 神聖ローマ帝国 科学 経済 自我と人格 言葉 言語 近代ドイツ 運命 音楽 ルチア、その伝承と構図、あるいは、神の摂理 聖ルチアは、3世紀ごろ、ローマ帝国時代にシシリー島、シラクサに生きた女性である。当時、国禁の宗教であったキリスト教を信仰していたルチアは、異教徒に求婚され、その欲情を誘った自分の眼を疎(ウト)み、自らそれを抉(エグ)り出して皿に乗せ、求婚者に贈った、という。この話自体が、真偽のほどが定かでないのに、後日、教会は、棄教を強制されたが、それに応じなかったがために最後には、眼球を抉り出された、というストーリーに書き換え、宗教的に、よりセンセーショナルな話にした。しかし、いずれにしろ、ルチアは信仰篤き、強情な女性であった。彼女は、ローマ帝国がキリスト教を公認してから、聖人に列せられたのだが、その後、目の擁護者ということから光の守り人となり、スカンディナヴィア地方の民間信仰であった12月13日の冬至の祭礼、光の祭り(ユリウス暦で夜が最も長い日。古代ゲルマン民族・ヴァイキングの冬至祭ユールと混交。)に祀(マツ)られ、それは聖ルチア祭となり、また、その光で航路を照らす、ということから、歌にも歌われる、ナポリの船舶の守護聖人サンタ・ルチアともなるのである。 ルチアという名前が、キリスト教に関連して、再び登場したのは、20世紀になってからである。それは、しかも、ファティマ、という名前と共にであった。ファティマとは、アラビア語で神の娘の意味であり、ムハムマドの娘の名前でもある。1917年、聖母降臨の奇跡が起こったといわれる、ポルトガルのリスボンの北東に位置するファティマは、伝承によれば、13世紀、アラブ人の支配下にあった時代、ファティマというアラブ人の王女がキリスト教徒の騎士と結婚しようと改宗したものの、若くして死に、望みを果たせなかった、という故事に、その地名は由来するという。何かしら、神との因縁めいた関係が暗示されるが、このファティマで起こった聖母降臨事件の渦中にこそ、そのルチア、ルチア・ドス・サントスはいたのである。 最初の聖母の出現は、1917年5月13日のことである。カベソの丘に遊ぶ3人の子供の前に、その人物は、忽然と、柊の樹上に出現した。その女性は、自らは名乗らず、毎月13日にその場所に来て自分と会うように、又、10月に名前を名乗る、と言って姿を消した。この女性と対話したのは、当時、最も年長だった10歳のルチアであり、以後の出現の際も、対話は主にルチアの役目であった。2回目の6月13日は、子供たちの言うことの真偽を確かめようと、約50人が集まったが、人々に幻は見えず、ただ光が舞っていることしか解らなかったが、子供たちにだけは、その女性の胸の外に茨に巻かれた心臓が見えていた。 翌7月13日、5,000人に膨らんだ群衆の前で、やはり、光の輪が舞い始め、例によって、3人の子供は、人々には見えぬ何者かと、話し始めた。この日、ルチアは、3つのメッセージを授けられたが、最後の3つ目のメッセージを明かすことは、ローマ教皇庁によって禁じられた。前2つのメッセージは、第一次世界大戦の惨劇と終結、次の教皇の時代に起こる、さらに惨(ムゴ)い戦争、ロシアの奉献についてであったが、3番目の啓示については、聖母との約束として1960年まで秘匿されることとなった。 それは、ファティマ第3の秘密、と、何時しか呼ばれるようになっていた。教皇庁は、当初、子供たちと聖母の約束通り、1960年に公表するとしていたが、それは実行されず、直後に閲覧したといわれる教皇ヨハネス23世も、その内容に驚き、再び封印し、次の教皇パウロ6世は、閲覧直後、人事不省に陥った、という。その後の教皇たちは、それをあえて見ることもなかったのか、特に話題になることもなく、黙殺されたかのようだった。 3人の子供たちは、うち二人は、幼くして死亡し、修道女となったルチアだけが秘跡の証言者として生き残っていて、そのルチアは、1974年、聖母の言葉として、「最後の武器はロザリオである」と語った。ロザリオの祈りとは、中世以来、ドミニク会などによって行われてきた特異な礼拝で、ロザリオの珠を繰りつつ、「アヴェ・マリア」「パーテル・ノステル」と、150回、あるいは、50回唱え、キリストの生涯とマリアを観想し、祈祷する。ドミニク会は、ロザリオの聖母を、レパント海戦勝利(1571年10月7日)の守護奇跡とし、教皇グレゴリオ13世は10月の第1日曜日を、ロザリオの聖母の祝日と定めた。 係る経過の後、2000年5月、教皇庁はファティマ第3の秘密の公開に踏み切った。しかし、それは予想されていた戦争に関するものではなかった。最後の審判でもなく、アルマゲドンでもない。ただ、教皇とその側近たちが虐殺される、敢えて言うなら、ローマ教皇庁の破滅、というものだったのである。その公開を待っていた人々は肩透かしを食らった。まだ何か隠されている、と邪推する者もいたが、それだけだった。公開から5年後、ルチアは97歳の長寿を全うする。遠い記憶の彼方から、既に天国へ旅立った、二人の幼い輩(トモガラ)の招く声とともに、あの神々しい姿の女性が浮かび上がる。そうだった、最後の出現の時、10月13日、あの女性は、確かに、「私はロザリオの聖母」と名乗った。 それから、ほぼ2カ月後、教皇ヨハネパウロ2世が死ぬ。彼は、遺書に次のように認(シタタ)めた。「核戦争に至らずに、冷戦の終結を見たのは、まさに神の摂理、プロヴィデンスであり、神に感謝の意を捧(ササ)げる。」さて、ロザリオの玄義、ミステリオス(秘跡)の真意は、一体どこにあったのか? トピックス 宗教 2020年03月14日 Posted by kirisawa 戻る
ルチアという名前が、キリスト教に関連して、再び登場したのは、20世紀になってからである。それは、しかも、ファティマ、という名前と共にであった。ファティマとは、アラビア語で神の娘の意味であり、ムハムマドの娘の名前でもある。1917年、聖母降臨の奇跡が起こったといわれる、ポルトガルのリスボンの北東に位置するファティマは、伝承によれば、13世紀、アラブ人の支配下にあった時代、ファティマというアラブ人の王女がキリスト教徒の騎士と結婚しようと改宗したものの、若くして死に、望みを果たせなかった、という故事に、その地名は由来するという。何かしら、神との因縁めいた関係が暗示されるが、このファティマで起こった聖母降臨事件の渦中にこそ、そのルチア、ルチア・ドス・サントスはいたのである。
最初の聖母の出現は、1917年5月13日のことである。カベソの丘に遊ぶ3人の子供の前に、その人物は、忽然と、柊の樹上に出現した。その女性は、自らは名乗らず、毎月13日にその場所に来て自分と会うように、又、10月に名前を名乗る、と言って姿を消した。この女性と対話したのは、当時、最も年長だった10歳のルチアであり、以後の出現の際も、対話は主にルチアの役目であった。2回目の6月13日は、子供たちの言うことの真偽を確かめようと、約50人が集まったが、人々に幻は見えず、ただ光が舞っていることしか解らなかったが、子供たちにだけは、その女性の胸の外に茨に巻かれた心臓が見えていた。
翌7月13日、5,000人に膨らんだ群衆の前で、やはり、光の輪が舞い始め、例によって、3人の子供は、人々には見えぬ何者かと、話し始めた。この日、ルチアは、3つのメッセージを授けられたが、最後の3つ目のメッセージを明かすことは、ローマ教皇庁によって禁じられた。前2つのメッセージは、第一次世界大戦の惨劇と終結、次の教皇の時代に起こる、さらに惨(ムゴ)い戦争、ロシアの奉献についてであったが、3番目の啓示については、聖母との約束として1960年まで秘匿されることとなった。
それは、ファティマ第3の秘密、と、何時しか呼ばれるようになっていた。教皇庁は、当初、子供たちと聖母の約束通り、1960年に公表するとしていたが、それは実行されず、直後に閲覧したといわれる教皇ヨハネス23世も、その内容に驚き、再び封印し、次の教皇パウロ6世は、閲覧直後、人事不省に陥った、という。その後の教皇たちは、それをあえて見ることもなかったのか、特に話題になることもなく、黙殺されたかのようだった。
3人の子供たちは、うち二人は、幼くして死亡し、修道女となったルチアだけが秘跡の証言者として生き残っていて、そのルチアは、1974年、聖母の言葉として、「最後の武器はロザリオである」と語った。ロザリオの祈りとは、中世以来、ドミニク会などによって行われてきた特異な礼拝で、ロザリオの珠を繰りつつ、「アヴェ・マリア」「パーテル・ノステル」と、150回、あるいは、50回唱え、キリストの生涯とマリアを観想し、祈祷する。ドミニク会は、ロザリオの聖母を、レパント海戦勝利(1571年10月7日)の守護奇跡とし、教皇グレゴリオ13世は10月の第1日曜日を、ロザリオの聖母の祝日と定めた。
係る経過の後、2000年5月、教皇庁はファティマ第3の秘密の公開に踏み切った。しかし、それは予想されていた戦争に関するものではなかった。最後の審判でもなく、アルマゲドンでもない。ただ、教皇とその側近たちが虐殺される、敢えて言うなら、ローマ教皇庁の破滅、というものだったのである。その公開を待っていた人々は肩透かしを食らった。まだ何か隠されている、と邪推する者もいたが、それだけだった。公開から5年後、ルチアは97歳の長寿を全うする。遠い記憶の彼方から、既に天国へ旅立った、二人の幼い輩(トモガラ)の招く声とともに、あの神々しい姿の女性が浮かび上がる。そうだった、最後の出現の時、10月13日、あの女性は、確かに、「私はロザリオの聖母」と名乗った。
それから、ほぼ2カ月後、教皇ヨハネパウロ2世が死ぬ。彼は、遺書に次のように認(シタタ)めた。「核戦争に至らずに、冷戦の終結を見たのは、まさに神の摂理、プロヴィデンスであり、神に感謝の意を捧(ササ)げる。」さて、ロザリオの玄義、ミステリオス(秘跡)の真意は、一体どこにあったのか?