1821年、メッテルニヒはオーストリア宰相となり、ハプスブルクは、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、プロイセンを除くドイツ、北イタリアの中南欧のほぼ60%を占める一大帝国に成長した。メッテルニヒの面目躍如である。しかし、ウィーン体制は思わぬところからひびが入った。スペイン領アメリカである。ブルボン家のスペイン統治に不満を持つ植民地の入植者たちは、各地で、押し付けられた傀儡(カイライ)政権を拒否し、自分たちの政府を作るなど、本国に反旗を翻(ヒルガエ)した。さらに、1821年3月、ギリシャがオスマン帝国からの独立を宣言し、ギリシャ独立戦争が始まる。この戦争には列国の思惑が交錯し、一進一退の戦いが続き、メッテルニヒも仲介しようとしたが、イギリスの横やりなどで停戦も実現せず、この最中(サナカ)、1830年7月、フランスで起こった7月革命でブルボン家のシャルル10世(Charles X 1757.10.9.-1836.11.6.:在位1824.9.16.-1830.8.2.)が追放されると、独立戦争への義勇兵の数も一段と増し、とうとう、1832年6月、ロシアも含めた列国の同意の下、ギリシャの独立は、遂に達成された。ここにおいて、現状の固定化を図るウィーン体制の崩壊は時間の問題となり、国民国家樹立への機運は嫌が応にも盛り上がって来た。それは、やがて、一民族一国家、という言葉に象徴される民族主義運動の成果として歴史に残ることになる。
ハプスブルクによるドイツの分断統治は経済的にもマイナスだった。都市・領邦間の高関税による物流の停滞は、産業の基盤整備を遅らせ、自由取引の大きな障害となっていた。関税線の複雑さはドイツ全域を麻痺させていた。フリードリヒ・リスト(Friedrich List 1789.8.6.-1846.11.30.)は、外国資本からドイツを守る意味でも全域での保護関税の必要性を訴え、物流コストを抑えるための域内関税の平準化を主張した。この提案に、先ず、プロイセンが応えた。プロイセンは、すぐに内地関税を撤廃し、その領土内に介在する諸邦を包摂して、プロイセン関税合同を締結(1828年)、これに続いて、バイエルンとヴェルテンベルクが南ドイツ関税同盟、ハノーヴァーとザクセンなどの中部ドイツ通商同盟も成立し、1834年、遂にこの三つのブロックが合流してドイツ関税同盟が発足した。これは、まだ、ドイツ全域をカヴァーするものではなかったが、プロイセンが主導するドイツの経済統一構想は、同時に始まった鉄道敷設工事と共に、早くも功を奏し始めた。
イギリスでは、ロスチャイルド家の3男、ネーサン・マイヤー(Nathan Mayer Rothschild 1777.9.16.-1836.7.28.)の野心的な保険と鉄道への進出計画が着々と進められていた。1824年、ネーサンは、アライアンス火災・生命保険会社を設立し、次いで、海上保険業にも手を伸ばし、既存の海上保険会社2社、及び、ロイズと対抗する勢いで、あらゆる経済活動の基盤である人的資源の確保と物流の安定化を軸に、次なる事業である鉄道建設とその経営に乗り出す余裕を見せた。そして、それを軌道に乗せると、大陸のフランス、オーストリアの鉄道建設にも進出し、急速に力をつけてきたユダヤ系の鉱山経営者たちに呼びかけて、鉄や銅、石炭などの資源開発に全力で取り組み、巨万の富を得ることとなった。当時、ユダヤ人は不動産売買を制限されていて、彼らの所有できたのは人の住めない山間部のみであった。ところが、産業革命の進展とともに、それらの資源は暴騰する。つまり、資源はユダヤ人の所有する、その“山”にこそ有り、近代資本主義社会の生命線はユダヤ人の手に握られてしまっていたのである。19世紀から20世紀にかけて、資源需要は拡大の一途をたどった。ネーサンはヨーロッパ中のユダヤ人資本家と連携して、鉄道という新たな高速物流を使い、産業の根幹である資源開発を独占することによって、ヨーロッパ各国の銀行をも独占的に支配し、強大で強固なロスチャイルド王国を作り上げることに成功したのである。
ヨーロッパ各国の財政は、公債発行の肩代わりを引き受けたロスチャイルド一族の手に握られることになり、その結果、政府の政策決定にも、ロスチャイルドの意向が反映されるようになったのも当然である。富を我が物にしたから、傲慢だったか、と言えばそうでもない。彼らは、国民主権・自由主義運動に同情的であり、冷静に推移を観察しつつ、賢明な後ろ盾として、その役割を果たした。ロスチャイルドが、近代市民社会成立の一翼を担った存在であり、立役者だったことも忘れてはならない。
ハプスブルクによるドイツの分断統治は経済的にもマイナスだった。都市・領邦間の高関税による物流の停滞は、産業の基盤整備を遅らせ、自由取引の大きな障害となっていた。関税線の複雑さはドイツ全域を麻痺させていた。フリードリヒ・リスト(Friedrich List 1789.8.6.-1846.11.30.)は、外国資本からドイツを守る意味でも全域での保護関税の必要性を訴え、物流コストを抑えるための域内関税の平準化を主張した。この提案に、先ず、プロイセンが応えた。プロイセンは、すぐに内地関税を撤廃し、その領土内に介在する諸邦を包摂して、プロイセン関税合同を締結(1828年)、これに続いて、バイエルンとヴェルテンベルクが南ドイツ関税同盟、ハノーヴァーとザクセンなどの中部ドイツ通商同盟も成立し、1834年、遂にこの三つのブロックが合流してドイツ関税同盟が発足した。これは、まだ、ドイツ全域をカヴァーするものではなかったが、プロイセンが主導するドイツの経済統一構想は、同時に始まった鉄道敷設工事と共に、早くも功を奏し始めた。
ドイツは産業革命では後発国であって、労働集約という考えも定着していなかったから、最初から産業資本家が台頭するような風土はなかった。政治の世界には、まだ、王侯貴族がまかり通ており、純粋な産業資本家は、ほぼ存在しなかった。かかる状況下では、資金の出し手は主に貴族階級に属する人々、つまり、有閑階級ということになるが、彼らは、決して無能であったわけではない。彼らの多くは知的探求心が旺盛であって、学究の徒である人々も多数いて、新知識の吸収に余念のない、所謂、インテリだったのである。従って、工場経営に失敗する者も多く、騙されて地位も財産も失ってしまう者も珍しくなかった。そのような混乱の中から、後に有名になる企業もいくつか現れる。
ラインラントを中心とするプロイセン諸州、ザクセンなど、早くから工業発展の目覚ましい地域では、ブルジョワの育成が進み、南ドイツの自由主義・国民主義運動に呼応する動きもあり、政治的統一の機運も盛り上がってきた。工業化が進み、人々のコミュニティーと生活は変質し始めていた。現実と宗教上の理念は遊離し、購買力が生活の質を変え、格差が生じる社会が到来していた。そして、一方では、相も変わらず、教会の権威に縋(スガ)って生きていくだけの聖職者たちがいた。だが、戦争と革命に翻弄(ホンロウ)され、疲弊し、荒廃した精神世界に取り残され、教条的なドグマの虜(トリコ)にされて、藻掻いているに過ぎないキリスト教に、今や、行き場は無かった。ヘーゲルが、神の復権に尽力したのは、あくまでも世界認識の一環だったからであり、そこに人間の主体的役割を見出そうとしたからであって、具象的偶像であるイエスやマリアを信奉したからではない。時代は、机上の神学や哲学を要求してはいなかった。