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1981年12月13日、日曜日、ヤルゼルスキ将軍の戒厳令布告によって、ポーランドはソ連による占領という最悪の事態を免れたが、ソリダルノシチ(連帯)は解体され、レフ・ワレサ議長は当局に連行されてしまった。翌1982年1月、「黄金の檻」の虜(トリコ)ワレサの7番目の子マリア-ヴィクトリアが誕生する。我が子との対面も叶(カナ)わぬワレサの胸には、受難に耐える心のシンボル、黒衣の聖母のペンダントがあった。6月、ワルシャワで起こった反政府暴動のため、ワレサは、ソ連国境のアルワモフ村へ移送され、軟禁状態に置かれることになったが、いつか来る解放の時を信じて気力を振り絞った。
1982年8月、チェストホヴァのヤスナ・ゴラ修道院では、「聖母の奇跡600周年記念式典」が盛大に挙行され、数十万の人々がワレサの無事と釈放を求めて祈った。而して、11月10日、尊大で傲慢なソ連共産党書記長レオニード・ブレジネフは世を去り、12月、ワレサは解放され、ポーランドの国難は去った。ポーランドにおいて、信仰の果たした役割は大きく、無視できないものであった。聖母の加護があったのかもしれない。