distortion and pain
リンディーの人格は、あの裁判とマスコミの卑劣な報道によって、深く傷つき、歪んでいった。誠実で陽気な振舞いは影を潜め、内向きで孤立しがちな憂鬱な素顔が目立つ日が増えていた。愛妻アンだけが、彼の不安定な心を支えていた。しかし、1936年7月のベルリン訪問以降、リンディーの思考は急激に変化していく。この視察旅行はアメリカ軍がドイツの空軍力の実態を探るために仕組んだものであったが、ドイツ側もリンディーを自国の戦力をアピールするプロパガンダに利用する意図があり、英雄夫妻は政治的に利用されるようになっていた。8月、ベルリン・オリンピックの開会式に招待されたリンディーは、ヒトラーの演説を間近に聞き、ドイツに陶酔して、すっかりその偏見・倒錯の世界の虜になり、秩序と進歩の幻想に引き込まれてしまう。
12月8日、日本海軍のパール・ハーバーへの奇襲攻撃により、アメリカは枢軸国3か国に宣戦を布告した。名優の仕事は、戦時下、ということで、事実上、停止状態で映画製作は休業となった。リンディーは、というと、反ユダヤ主義で知られる自動車王ヘンリー・フォード(Henry Ford 1863.7.30.-1947.4.7.)のコンサルタントとなり、翌1942年、対日戦線の太平洋を運行する輸送便ユナイテッド・エア・クラフトのパイロットに変じ、1944年、民間の技術顧問として、ニューギニアで実戦に参加する。これは、軍籍のない彼には許可されないことであったが、黙認されていた。至近距離の敵基地ラバウルを牽(ケン)制するため配備されていたロッキードP-38ライトニング(山本五十六機を撃墜した同型機)を操縦し、燃費の節約の飛行法を伝授した、という逸話も残されている。こうした厚遇の裏には、太平洋方面軍司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 1880.1.26.-1964.4.5.)の庇護があった。マッカーサーは英雄のファンであり、友人になることを望んだ。因みに、リンディーはドイツとは戦わないのである。
リンディーの人格は、あの裁判とマスコミの卑劣な報道によって、深く傷つき、歪んでいった。誠実で陽気な振舞いは影を潜め、内向きで孤立しがちな憂鬱な素顔が目立つ日が増えていた。愛妻アンだけが、彼の不安定な心を支えていた。しかし、1936年7月のベルリン訪問以降、リンディーの思考は急激に変化していく。この視察旅行はアメリカ軍がドイツの空軍力の実態を探るために仕組んだものであったが、ドイツ側もリンディーを自国の戦力をアピールするプロパガンダに利用する意図があり、英雄夫妻は政治的に利用されるようになっていた。8月、ベルリン・オリンピックの開会式に招待されたリンディーは、ヒトラーの演説を間近に聞き、ドイツに陶酔して、すっかりその偏見・倒錯の世界の虜になり、秩序と進歩の幻想に引き込まれてしまう。
1938年3月、ドイツはオーストリアを併合、9月には、ミュンヘン会談でズデーデン領有を欧州各国に承認させたヒトラーは、ヨーロッパ制覇という、現実から遊離した野心を露(アラ)わにし、妄念のまま走り出そうとしていた。リンディーが、ドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリング(Hermann Goring 1893.1.12.-1946.10.15.)から勲章を授けられたのはその最中(サナカ)、10月8日のことである。アメリカでは公然とリンディーを批判する声もあったが、彼を非戦論者と考える者も多く、まだ、その評価は定まっていなかった。1939年4月4日、リンディーは家族を連れて、きな臭くなってきたヨーロッパを後にアメリカに帰国した。
リンディーはドイツの何に魅せられたか、というと、それは一言でいうと、工業化された社会と都市に集約される。もし、付け加えるものがあるとすれば、それは医学ということになろう。彼には、より高い文明化された世界こそが、理想郷であり、そこにはより高いモラルの、より洗練された人々が住んでいる、という錯覚があって、来るべき科学文明の信奉者であった彼にとって、そのことが不幸であり、誤算であった。1941年4月、軍籍を返上すると共に、誤(アヤマ)れる使命感から、ヒトラーを狂信者と断罪しながら、ナチスを礼賛し、対独戦の回避を説いて回り、遂に、同年9月、“イギリスとユダヤ人とルーズヴェルトが主戦派の元凶だ。”、と演説してしまった。これで、リンディーの栄光の命運は尽きた。彼には、ナチスの代弁者、というレッテルが張られ、臆病者と謗(ソシ)られ、その名声も地に落ちることとなる。それにしても、奇跡の英雄とまで讃えられた青年が、何故、ここまで、人種的偏見に囚(トラ)われ、ユダヤ人や有色人種を嫌悪し、あらゆる卑俗と感じるものを軽蔑するようになったか、実際のところは不明であるが、彼の心境の変化が、現実への幻滅から発していたのは疑いない。加えて、優生学的純粋や反共主義、黄禍論にも関心を示し、明らかに白人中心主義の立場に立っていたことも事実である。
12月8日、日本海軍のパール・ハーバーへの奇襲攻撃により、アメリカは枢軸国3か国に宣戦を布告した。名優の仕事は、戦時下、ということで、事実上、停止状態で映画製作は休業となった。リンディーは、というと、反ユダヤ主義で知られる自動車王ヘンリー・フォード(Henry Ford 1863.7.30.-1947.4.7.)のコンサルタントとなり、翌1942年、対日戦線の太平洋を運行する輸送便ユナイテッド・エア・クラフトのパイロットに変じ、1944年、民間の技術顧問として、ニューギニアで実戦に参加する。これは、軍籍のない彼には許可されないことであったが、黙認されていた。至近距離の敵基地ラバウルを牽(ケン)制するため配備されていたロッキードP-38ライトニング(山本五十六機を撃墜した同型機)を操縦し、燃費の節約の飛行法を伝授した、という逸話も残されている。こうした厚遇の裏には、太平洋方面軍司令官ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur 1880.1.26.-1964.4.5.)の庇護があった。マッカーサーは英雄のファンであり、友人になることを望んだ。因みに、リンディーはドイツとは戦わないのである。
1945年5月、リンディーは、再び、ベルリンの土を踏んだ。憧れたドイツは、もう無かった。破壊された都市の屍(シカバネ)の中を徘徊し、何かが、内側から崩壊していくのを、リンディーは感じた。全てが終わった。終わったのだ。強制収容所もそこで行われた凶行も。
8月6日、9日、シヴァ神(インドの破滅・死滅の神)の怒りは広島・長崎で炸裂した。戦争は終わった。それから、間もなく、リンディーは、その破壊力を、広島で疑似体験する。人間は何を作ってきたのか?もう、リンディーには、判らなくなってしまった。
彼の二重生活が明るみに出たのは、2003年、死後29年後のことである。1950年代、リンディー夫婦の動静は余り良く分かっていない。彼らは各々精力的に執筆活動に励んだ。そして、リンディーは、度々、ヨーロッパに行き、滞在することがあった。それが、彼のベールに覆われた憩いのひと時なのであった。その女性、アストリッドはバイエルンの田舎町で帽子縫製婦だったブリジッド・ヘッシャイマー(1926-2001)の娘である。父の名はクラウ・ケントCarou Kent。1年に2,3回会いに来る不思議な人だった、という。それが、リンディーだ、という。リンディーの遺族は気色ばんだが、もう、遥か昔のことだ、と思い返し、まさかとは思いつつDNA鑑定に臨んだ。結果は、黒。姉妹だったのだ。驚くべきことは、さらに続いた。アストリッドの兄弟二人もリンディーの子であり、後から名乗り出た、ブリジッドの妹マリエットの二人の子も、あろうことか、元秘書だったヴァレスカの二人の子も皆リンディーの落とし胤(ダネ)だったのである。