two Charlies in truth and conscience chapter 3


 harbinger of disaster
 名優の快進撃は続く。1925年の「黄金狂時代」の大ヒットに続き、1928年の「サーカス」ではアカデミー賞特別賞を受賞、いよいよ、後に無声映画の最高峰と評されることになる「街の灯」の製作に取り掛かる。その頃、若き英雄は恋愛の只中にあった。1927年12月、メキシコ駐在のアメリカ大使に招待された英雄は、メキシコへ行き、その娘アン・モロー(Anne Morrow 1906.6.22.-2001.2.7.)に引き合わされる。まだ、カレッジの学生だったアンに強く惹かれたリンディーは、彼女の卒業を待って結婚する決意を固め、1929年9月、二人は盛大な結婚式を挙げた。翌1930年、長男チャールズ・ジュニアが誕生する。

 この時期は、俗にいう“ロストジェネレーションLost Generation(失われた世代)”、あるいは、ジャズ・エイジと呼ばれた人々の時代であり、アメリカ文化の興隆の第一期に当たる。アメリカ文化の特徴は、と言えば、それは何をおいても、先ず、機械文明であることが挙げられる。それを最もよく示すものとして、自動車があり、航空機がある。こうした工業製品は人や馬などから置き換わったものであり、生活そのものがそれまでの時代に比べ圧倒的に衛生的で簡易なものに変化した。この第一期は、人々が、まだ、機械に馴染むには十分でなく、変化についていくのがやっと、といった段階であり、新たな道具を使いこなすところまで至っていなかった。そうした意味で、二人のチャーリーは二人とも、時代の最先端産業の旗手であり、体感者であって、当(マサ)に時代を象徴する人物であった。
 
 映画界もトーキー全盛の時代となっていた1931年、チャーリーは敢(アエ)てサイレントに拘(コダ)わり、音楽の実音だけで構成された無声映画「街の灯」を世に送った。「街の灯」は大成功ではあったが、名優はすぐに気づいた。もう、サイレントの時代は去った、と。もう一人のチャーリー、リンディーは幸福の絶頂にあった。愛妻アンと愛児ジュニアとの三人の生活は彼に安らぎと笑顔をもたらし、明日の、次なるステップへ導いてくれるのだった。アンは飛行機のライセンスも取得し、夫婦揃(ソロ)って、空へ旅立とうとプランを練っていた。そして、それは、すぐに実現される。パン・アメリカン航空から北太平洋航路調査のため、ロッキードの水上機シリウス、“Chinmisatok(チンミサトーク;イヌイット語 大きな鳥)”で、ニューヨークからカナダ・アラスカ経由で日本・中華民国へのフライトを要請されたのである。これは、二人にとってはバラ色のフライトだった。妻は、後日、飛行紀行文「NORTH TO THE ORIENT」でその感動を綴(ツヅ)っている。

 名優にとって、今、世界を見ておかねば、という気持ちが芽生えたのは、このアンチ-トーキー映画を一区切りとして、変わりゆく時代の気配を敏感に感じ取っていたからだろう。一年半にわたる外遊、世界旅行はロンドンを皮切りに、翌1932年の日本旅行まで続いた。ロンドンではチャーチルやバーナード・ショウ、そして、マハトマ・ガンジーと、ベルリンではアインシュタイン、マレーネ・ディートリヒと旧交を温め、ジャワ、シンガポールを回り、日本では皇居に一礼し(直後に、五・一五事件)、恙(ツツガ)なくアメリカに戻ってきたのであったが、それは、正にリンディーにとって生涯最悪の、あのリンドバーグ・ジュニア誘拐事件のあった年である。

 1932年3月1日、ジュニアは二階の寝室から居なくなっていた。そこには、身代金5万ドルを要求する手紙があり、家人はすぐに警察へ通報した。10週間に及ぶ捜索と犯人との交渉がFBIの手で行われたが、全ては不調に終わり、最悪の結果が明らかになる。5月12日、遺棄されていた遺体が、ニュージャージー州ホープウェルの自宅から5キロの地点で発見されたのである。例によって、この悲劇はマスコミに大々的に報道され、英雄と妻は、一人の子供を殺された父母として、嘆き悲しむ姿を晒(サラ)さなければならなかった。1934年、ドイツ系移民の男が逮捕され、1936年4月、死刑となったが、初めから死刑在りき、という裁判の結果であり、苦々しさの残る事件として記憶されることとなった。

 名優は疑問に思う時事問題的な視線を意識した新たな映画を模索しだした。1936年の「モダンタイムス」、1940年の「独裁者」はその代表的作品である。そこには、名優の人道主義が明確に表現されており、独善に陥っている人間の愚かさが堂々と披歴されている。
「モダンタイムス」は機械文明への批判ではあるが、その空虚な人間関係が生み出す世知辛い世相にも目を向けており、意味深な階級批判になっている。「独裁者」は明らかにヒトラー批判であり、その暴力的・威圧的攻撃性が、やがて、牙を剥くことへの警告であり、日和見主義がその助けになることを予見したものである。チャーリーの皮肉(批評)の本領発揮といった二つの作品が、今日でも色褪せない理由は、良心の砦である人間のお互いの善意への信頼によって成り立つ、真の愛と勇気が表現されているからといえる。名優の、この主張は私生活でも怯(ヒル)むことなく繰り返されており、1957年公開の最後の作品「ニューヨークの王様」まで、弱者の側に身を置く姿勢を崩さなかった。

 リンディーには、実は心臓弁膜症を患う姉がいた。彼は、その姉のために最新の心臓を補助する血液循環器を試作しようと、生理学者のアレクシス・カレルに相談した。二人の努力は、1935年に「カレル・リンドバーグポンプ」となって現れる。この発明により、人工心臓への道が開かれたのであり、その功績は大きい。1936年秋、リンディーはアメリカを離れることを決意した。リンディー夫妻は、あの忌々しい事件後も、執拗にマスコミに追い回されており、もはや、アメリカに落ち着いて生活できる場所はなかった。嫌がらせも続き、次男ジョンの誘拐をほのめかす脅迫状も後を絶たなかった。年も押し詰まった12月31日、リンディー一家はイギリス、リヴァプール港に着き、翌1937年には、大使館の配慮でロンドン郊外に居を構え、水入らずの時を満喫することができた。
2019年11月12日
Posted by kirisawa
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