two Charlies in truth and conscience chapter 2


 free as a bird, Lindy
 少年は空を見ている。遠く、心地よい機械音が鳴っている空を見上げて。いつか、自分も、あの空の中を思いっきり飛び回り、自由を満喫するのだ、と。一人ぼっちの、一人よがり、なのかもしれないが、少年の夢は広がっていく。1917年、もう一人のチャーリーは15歳の少年だった。母の影響か、機械仕掛けのおもちゃに夢中だった幼子は、いつからか、飛行機に憧れる少年になっていた。両親が不在の時、少年は一人、自分の作り上げた空想の世界に遊び、戦争で脚光を浴びた飛行機の操縦桿(カン)を握った。

 1922年、チャーリーはネブラスカ航空機のパイロットと整備士の資格を取る訓練に応募し、一端(イッパシ)の飛行家になるための道を歩み出した。それを機に、前々から計画していた通り、自費でカーティスJN-4-Dを購入し、曲がりなりにも曲芸飛行家の端くれに名を連ねることになったのである。しかし、曲芸飛行の時代は斜陽となりつつあって、飛行機の商業利用の浸透と共に法的規制が敷かれ、次第に姿を消していく方向にあった。来たるべき新時代が何をもたらすのか、チャーリーの関心はそれに移っていた。

 1924年3月、チャーリーは陸軍航空隊で本格的に飛行士としての知識を身に着け、訓練を受けて一流のパイロットの道に踏み出した。しかも、成績はトップで、予備役少尉に任官した。時に、前後して、この年、ニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグは、5年以内に大西洋無着陸横断飛行(ニューヨーク・パリ間)に成功した連合国側のパイロットに賞金25,000ドルを与えると、新聞紙面上で発表した。これを知った航空関係者は勿論、飛行家たちも浮足立ち、マスコミもセンセーショナルに報道したため、世情は騒然となり、一大飛行ブームが巻き起こった。

 チャーリーもこれを知ると同時に、自分にもチャンスがあるかもしれないと思った。しかし、自分の未熟さは隠しようもなかった。彼は、大望を抱いたが、それを実現するにはどうすればいいか、すぐには答えは出なかった。それでも、これを実現できれば、一生に一度の快挙なのだ、ということを真剣に思った。彼は、入念な計画を立て、まず、十分な経験を積むべく、郵便輸送機のパイロットに応募して、夜間、荒天での飛行に挑んだ。既に、期限はあと3年しか残っていなかったが、チャーリーは若干23歳にしてベテランも見紛(マガ)う手腕の飛行士へと、変貌していた。いつしか、チャーリーはリンディーと呼ばれるようになっていた。リンディーの挑戦はその綿密な計画の下、着々と進められていた。

 1927年1月、大西洋横断は気象の安定する4、5月に実行することを決め、準備が進めることとして、リンディーは機体の設計を、忠実な同志、ドナルド・ホール(当時27歳)に委ね、製造はサンディエゴの小さな航空機製造会社「ライアン・フライト社」に発注した。機体製造の基本は高速軽量・単独操縦とし、これに適合させるよう、彼が直接指示した。2月、リンディーは、公式に大西洋無着陸横断に挑戦することを表明し、マスコミは挙(コゾ)って、これをトピックとして報道した。彼の名は初めて、公に知られることとなり、郵便飛行家は、一躍注目を集める存在となった。こうして時が過ぎ、2か月後、ライアンM-2 カスタマイズ、即ち、スピリット・オブ・セントルイスは完成し、テスト飛行が始まった。出発は、悪天候が続き、順延され、5月中には難しいとも思われたが、その機会はとうとうやってきた。この間に、呼び声も高い飛行家たちがトライ、またはテスト飛行中のアクシデントで命を落としており、無名の若者の挑戦は、全く無謀と思われた。

 1927年5月20日5時52分、リンディーの操縦するスピリット・オブ・セントルイスはニューヨーク郊外ロングアイランドのルーズヴェルト空港の泥濘(ヌカル)んだ滑走路から飛び立った。食料はサンドイッチ4つ、水筒2本だけ。ガソリンは1,700リットルだった。洋上飛行時間はおよそ30時間、空腹と睡魔に悩まされながら、アイルランド南方海上を通過、イギリス南端を横切り、いよいよ、ヨーロッパ大陸へ。5月21日22時、パリ上空、22時21分(現地時刻)パリ、ル・ブルジェ空港に着陸した。リンディーの第一声は「英語を話せる方はいますか?」だったという。勇敢な25歳の若き空の英雄の誕生だった。トータルの飛行時間は33時間29分、距離5,810キロメートルと記録されている。20万人とも、40万人とも言われるパリ市民が空港へ殺到し、歓声を挙げ、この世界的英雄となった若者を祝福し、その興奮は朝まで続いた。

 6月11日、大統領カルヴィン・クーリッジは若き英雄のために、軍艦メンフィスを派遣し、ニューヨークで行った凱旋歓迎式典で彼を5階級特進の大佐に任命し、その功績を讃える演説をした。リンディーは異例の昇進に驚く一方で、喜びを素直に嚙み締めた。アメリカ全土が歓喜に沸き立っていた。好青年である空の英雄は、どこに行っても歓迎された。富と名声が一度に転がり込んだリンディーには、まだ信じられなかったが、自分の偉業が夢ではないことに満足した。しかし、これからどうなっていくのか、一抹の不安が鎌首を擡(モタ)げる。

 リンディーは、孤独の影がある潔癖な性格で、精密で正確な論理に基づく判断がその持ち味であり、人を愚弄したり、悪意ある行為は嫌悪した。それは、まだ俗世に染まらない、若者特有の一面であるとも言えるが、後述するナチス讃美という彼の唯一の汚点となった行為を除けば、善良実直の人生だったのではないだろうか。大西洋単独無着陸飛行は、確かに、当時の人々にとっては大偉業には違いなく、世界史的出来事であった。それを達成した勇敢な若者の記憶は、今世紀になっても色褪(ア)せず、アメリカの人々にとっては誇りである。
2019年11月11日
Posted by kirisawa
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