two Charlies in truth and conscience chapter 1


 spring has come, and good luck too
 それは1913年、チャーリー24歳の年、二度目のアメリカ興行の時である。当時まだ新興産業だった映画のプロデューサー、マック・セネットはこの若いイギリスのコメディアン(?)に興味を持った。プロデューサーの仲立ちで、チャーリーは週給150ドルでキーストン社と契約、映画俳優の道を歩むことになる。1914年、デビュー作「成功争い」を見たセネットは、「もっと面白い恰好(カッコウ)をしろ」とチャーリーに注文を付け、自分でキャラクター作りをするよう指示した。チャーリーは、自分がイギリス人であることから、紳士然とした出で立ちではあるものの、貧しく落ちぶれた姿を晒(サラ)して憚(ハバカ)らない、滑稽(コッケイ)でちぐはぐな人格を思いつき、山高帽に窮屈(キュウクツ)な上着、だぶだぶズボンにドタ靴、チョビ髭にステッキを振り回す、という、ありそうにない主人公を作り出した。勿論、外見だけでウケルほど、簡単な世界ではない。チャーリーは、映画を撮り重ねるほど、演技力を増し、そのキャラクターに命を吹き込んで、自分のものとしていった。the little Tramp (小さき放浪者)とは、そのキャラクターについた名前である。同じ年、監督・脚本を担当した「恋の二十分」も発表され、作り手としても評価されるようになっていく。

 1915年は特別な年であった。シカゴのエッセナイ社に週給1250ドルの契約で移籍したのであるが、ここで、エドナ・パーヴァイアンス(Edna Purviance 1895.10.21.-1958.1.11.)と出会い、共演者としてだけでなく、公私ともに親しいパートナーとして交際することとなったのである。この交際は8年に及び、様々な出来事がチャーリーの周辺には起こったが、その都度、その相談相手としてエドナの果たした役割は大きかった。

 翌1916年、週給1万ドル+ボーナス15万ドル、年額67万ドル(大統領の年俸の7倍)という破格の待遇で、ミューチュアル社と契約、人気は不動のものとなり、多忙を極めながらも、何不自由ない暮らしを手に入れ、兄シドニーをマネージャーに、日本人高野虎市を運転手に雇い入れるなど、したい放題の毎日を送り、人生の頂点に立ったかのような錯覚を覚えた、かもしれない。彼は、勝利者の気分に酔っていた。(後年、回想している。「一番、幸福な頃だったかもしれない。」と。)1918年、チャーリーの映画は世界中に配給されるようになり、興行収入は史上最高、遂に、年間100万ドル超の契約でファースト・ナショナル社に移籍、ミリオンダラーアクター、映画王となった。時に、アメリカは第一次世界大戦へ参戦を決め、チャーリーは政府の発行する戦時公債の促進キャンペーンに協力して、プロパガンダ映画「公債」を製作する。

 そして、この頃、1918年9月、唐突に結婚した。相手はエドナではない。最初の妻となったのは、どういう訳か、16歳の新人、ミルドレッド・ハリス(Mildred Harris 1901.11.29.-1944.7.20.)であった。彼女が性的関係を告白したのである。このスキャンダルは、妊娠したとか、していないとかの、でっち上げ騒動であったが、チャーリーとエドナは、早々に事態を収拾することが関係諸氏の利益を損なわない最良の方法と判断した。翌、1919年7月7日、ミルドレッドは男の子を出産したが、重度の身体障害で、3日後には死亡、名優は暫(シバ)し忘我の胸中にあった。その後、二人の仲は急速に悪化し、泥沼の離婚訴訟の末、1920年11月、遂に、離婚は成立する。

 この間、チャーリーの初の長編無声映画(silent movie)「キッド」の製作は、離婚騒動にまつわる配給元とのイザコザの末、幾つかの曲折を経て、漸(ヨウヤ)く、完成に近づいていたが、事前の構想が、現実に起きる様々な事件により、度々(タビタビ)変更されて、複雑な展開になり、チャーリー自身、編集に苦心した形跡が認められ、その作業は1年近く続いた。そして、この作品は、つまり、捨てられた子を拾ったチャーリーが、その子を育て、成長した子は、その後、捨てたことを悔いて探し回る母親(エドナ)の屋敷に、偶然が重なって帰ることになる、というハッピーエンドのストーリーなのであるが、これには、チャーリーの子を失った深い喪失感が反映されているだけでなく、誰しもが思う幸福追求の欲求を率直に肯定し、誰しもにその権利があることを暗に示す、という隠れた意図があったものと考えられる。

 この物語は、実は、チャーリーとエドナの共演した作品の集大成ともいうべきものであり、チャーリーはこれまでに無い意気込みで製作にあたっていた。そして、これが、二人の事実上の“終演”を告げる作品になった。エドナとしては、自分が身を引くしか、チャーリーを生かす道はなく、トーキーの時代を生きる意欲も、自分には残っていないことを知っていた。「キッド」は1921年1月に公開された。オープニングのナレーションは「笑いと、たぶん、涙の物語」と謳(ウタ)った。前評判もよく、興行的には全米でヒットしただけでなく、世界的大ヒットで、世界中の観客を泣かせ、笑わせた。チャーリーはロンドンに凱旋帰国を果たし、H.G.ウェルズをはじめとする各界の著名有名人に歓迎された。第一次世界大戦で荒廃した欧州各都市にも旅をし、帰米後、戦禍の悲惨さを口述筆記した、という。

 二人の最後の作品「巴里の女性」は1923年、名優は監督に徹し、エドナは主演女優として、一人の陰のある、しかし、芯のあるキャラクターを演じきった。彼女は日陰の女などではなかった。賢明であり、現実的だった。沈思黙考型の女性だった。この年、チャーリーは二度目の結婚をしたが、3年しか持たなかった。エドナは1927年に引退したが、名優は彼女が死ぬ1958年まで、敬意を払い、自分のスタジオの専属女優として、週150ドルの出演料を彼女の口座に振り込み続けた。
2019年11月11日
Posted by kirisawa
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