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まず、能や茶道には、悟り、というものは無い。有るのは一連の顛末である。そこで何を得るのか、と言えば、落着。悲嘆でもなく、歓喜でもない、無常の結末、“安心”なのである。それは、“終わった。”という瞬間の実感の仮想的創造であって、苦悩からの解放の瞬間の疑似体験を意味する。これをエスケープ(逃避)と言ってしまっては、元も子もないが、ここに、“疲れ”を表す寂寥感というものが伴う点で、わび・さびは伝統文化としての価値があるものと思われる。それは哲学の感性的結末を示唆するものとも言えるが、要するに、閉塞した時空間に堆積したストレスを消化するために行われるイニシエーション(儀式・模擬劇)であり、それを行うことは、神事の具現化であって、それによって、伝統的価値と融合するのである。
それでは、何故、そういう行為に及ぶのか、というと、その根底には、明らかな後ろめたさ、と同時に無力感・やるせなさ、という行動不能のジレンマがある。憤りを覚える局面、救援すべき局面に遭遇した時、ヒトは必ずしも適切な行動をとれるわけでもなく、葛藤の中で苦悩し、決断しなければならず、最良の手段どころか、成す術(スベ)もなく立ち竦(スク)む他ない場合も多い。こうした時、過剰の精神的ストレスを何らかの作用によって、昇華する(宗教的には、浄化する)がために、このような、本当の意味での“狂言”が必要となったのだろう。
しかし、これは、欺瞞という問題を孕んでいる。個人であれば、自己欺瞞であるが、民族なら、集団欺瞞とでもいう他ない。見捨てられたものはどうなるのか?救う手立てが無かった?見て見ぬ振りだったのか?そういう事象は数限りなくある。漫然と見過ごした?声を上げる者はいなかった?そうだろう。しかし、そうすべきだった、と思う。ヒトのシステムは、検証という作用を備えており、昇華した事象についても、それは機能する。それは、隠蔽された事実でさえも忘却することは無い。仮に、意識的に伏せられていた事象でも死に至る瞬間までそれは残存しているだろうし、不都合な事実からヒトは逃れられないだろう。それが人間というシステムである。一時的に関心を逸(ソ)らすことができても、人間としての責任は追及される。それが、脳に装備されている、生まれながらの仕組みであるから。それ故のわび(詫び)であり、さび(寥;空虚感)である。