ヘーゲル、弁証法による世界観の成立、もしくは、神との葛藤;近代ドイツ 4


ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770.8.27.-1831.11.14.)は、シュトットガルトのプロテスタント(父は中級官吏)の家に生まれ、幼児期よりラテン語の手ほどきを受けて、知識欲も旺盛な子供であったが、13歳の時、母親が死去し、人間の運命について考えるようになった。1788年、18歳になると、チュービンゲンの神学校に入学し、ここで、牧師を目指して勉学に励んだが、咽頭障害で発音が悪く、説教にも支障があると判断され、牧師の道をあきらめざるを得なかった。しかし、ヘーゲルは、この学校の寄宿舎でヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Holderlin 1770.3.20.-1843.6.6.)とシェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling 1775.1.27.-1854.8.20.)と同室となり、掛け替えのない二人の知己を得た。それは、三人の運命的な出会いであり、ヘーゲルにとって、この二人との友情は貴重な財産となった。1789年7月、フランス革命が始まるや、その刺激を受けたヘルダーリンとヘーゲルは、ドイツの自由と統一が目前でもあるかのような錯覚を覚え、新時代の夢想に耽(フケ)った。1793年、学校を卒業し、スイスで家庭教師の職を得たが、生活は楽ではなかった。当時の青少年のご多分に漏れず、ヘーゲルも啓蒙思想の影響を受け、カント哲学の礼賛者となったが、それも、知識欲旺盛な果敢な青春時代であったがためといえる。故に、ヘーゲルが、その時期、既に、自己の考察を筆記するようになっていたのも自然なことであって、当時のノートには、生の哲学と銘打ち、キリスト教を批判する論説を認(シタタ)めていたのも、不思議なことでは無かった。

やがて、スイスから、フランクフルトへ居を移したものの、相変わらずの家庭教師生活であり、然(サ)したる変化はなかった。彼がドイツ古典哲学の巨人の一人であることは疑いないが、その原点は真にこの時期にあり、激しい時代の潮流の中で苦悶した刻苦奮闘の一人の学究の徒であったことは間違いない。1799年、ヘーゲルは父の遺産を受け継いで、ようやく自立し、既に、イエーナ大学の教授になっていた友人シェリングの計らいにより、同大学の私講師の職に就くこととなった。シェリングは、早熟な天才肌の新進の哲学者であり、早くから文壇に聞こえ、この当時もすでにフィヒテと対等に、「神即自然」を主張し、スピノザの一元的汎神論を支持して、主体(自我)と客体(彼我)の二律背反の二元論の立場をとるカント哲学を否定することに熱心だった。ヘーゲルは、シェリングのこうした活躍をうらやましくも、誇らしくも思ったが、常に、その後塵を拝しているという負い目を感じない日はなかったであろう。

ヘーゲルが最初の著書を着想したのは、これから間もなくのことだったと思われる。彼は、意識と覚醒という概念に囚われていた。おそらくは、この著作の発想のすべてはそこから生じた。序文に“死中に活を求めん”とある。内容は、意識の自覚から始まる。そして、そこから、人間の自意識(認識)の段階的拡張と発展のプロセスが滔々と詳述されていく。その客体と主体との統合・同一性についての絶対的精神の部分で、ヘーゲルはフィヒテとシェリングを批判した。又、所謂(イワユル)、ヘーゲルの弁証法も、この時、カントの二律背反(アンチノミー;二項対立命題)を克服するため発案したとされ、その解決策として、やがて、注目されることになる。何にしても、著書「精神現象学」(原題は「学の体系System der Wissenschaft」)は滞(トドコオ)りなく、1806年12月、脱稿した。

不穏な、険悪な空気が、ヘーゲルに漂い始めていた。ヘーゲルとシェリングの仲は、1807年、ヘーゲルの著作の出版と同時に亀裂が入り、ヘーゲルは、親友を失ったうえ、不品行にも、下宿の女主人に私生児を出産させるという破廉恥ぶりで進退窮まり、追いつめられる立場となっていた。寄りにもよって、その時にこそ、ナポレオン軍がイエーナへ侵攻してきたのである。大学は閉鎖となり、ヘーゲルも、命からがら、イエーナを退去する他なかった。ヘーゲルが、期待し、夢想したナポレオン軍は自由の解放軍などにはなり得ず、ただの異国の侵略者に他ならなかった。この年12月から翌1808年にかけて、ナポレオン軍に占領されたベルリンの学士院講堂において、フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という歴史的連続講演を行ったが、それは理想と理念の混濁した民族主義のアジテーションに過ぎなかった。

フィヒテとシェリングの蜜月も、自然哲学を巡るフィヒテの頑(カタク)なさが災いして、程無く破綻し、その後、シェリングは、神の存在とその理由を説く独自の道を歩んだ。ヘーゲルはバンベルクへ移り、新聞編集者を経て、ニュルンベルクでギムナジウムの校長となり、1811年には、21歳年下のマリー・トゥハル(Marie Helena Susanna von Tucher 1791-1855)と結婚し、間もなく二人の子供にも恵まれ、家庭生活に勤しむ毎日を送る。1816年、ヘーゲルは、講義に出席する生徒のために、自らの論理学の詳解となる、理念の創生から、運動、諸相を、平易に説明した「論理学」(Wissenschaft der Logik)を出版した。すると、これが大学関係者の間で話題となり、ヘーゲルの名は一躍有名になって、エルランゲン大学、ハイデルベルク大学、ベルリン大学の3大学は、競って、ヘーゲルを招聘しようとした。そして、7月、遂に、ヘーゲルは、ハイデルベルク大学から、正教授就任の招聘状を受け取り、彼は、46歳にして大学教授に就任することになったのである。ヘーゲルは、それまでイエーナに残してきた庶子のルードヴィヒを忘れてはいなかった。この機会にルードヴィヒを引き取り、家族5人、ハイデルベルクで暮らすことを誓った。以後、勤務地が変わり、転居することもあったが、家族はいつも一緒だった。

ギムナジウムの勤務の長かったヘーゲルと生徒たちや卒業生の間には、親密な学業上の信頼関係が成立していた。ヘーゲルの学識と人柄を慕う彼らとの交流の中で、彼は自身の哲学の総括を行い、その集大成として、それまでの思想遍歴を基に一つの著作の出版を準備していた。その著作、「エンチクロペディー」(哲学体系 Enzyklopadie der Philosophischen Wissenscheften )は、彼らは勿論、新たなる大学の関係者らの期待の下、1817年、満を持して刊行された。理念は、弁証法によって、自然に、次いで、精神に発展する。自然は理念の他在の形態であり、他在から自己に還帰したものが精神である。従って、ヘーゲルは、自らの哲学を、論理学、自然哲学、精神哲学の3系統に大別し、さらに弁証法によって細分した。世界は、絶対者、又は、理念の弁証法的発展であり、それを、追思惟するのが、哲学である。

ヘーゲルの世代は、反動と革命の鬩(セメ)ぎ合いの国民国家の芽生えの時代を生き、都市化・工業化の資本主義の初期段階、そして、哲学の宗教からの独立が始まった、人類の相対的価値の転換点に位置する変貌の時代を生きた当事者であると同時に歴史の目撃者であった。様々な議論、様々な試みがなされ、その多くは、実を結ばず、時の流れの中にかき消され、理論的に成就したものは稀であって、その中で一定の評価を得たヘーゲルの論考(構成的な記号論の一つでしかないかもしれないが。)は、当時の宗教と現実の鼎立構造に符合する要素もあり、そのため、歴史に観念論の最終章として、取り扱われてきた経緯がある。しかしながら、今日、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルと続く観念論の連続的な系譜・歴史性の研究には、多くの疑問符がついている。彼らには、一貫した共通項もなく、カント哲学の否認に終始し、他方、超越性だけを強調し、教会との調和に腐心していたにすぎない面もあり、その態度は不合理だった。フィヒテとシェリングを排除し、ヘーゲルを観念論の総括的立場に置くのは妥当なのだろう。しかし、ヘーゲルの哲学人生は、ある意味、現実との妥協に次ぐ、妥協であったことは否めない。彼が時代と折衷した、融合主義の打算的な人物であったことは紛れもない事実である。

ヘーゲルの弁証法が画期的だったことは論を待たない。何処が優(スグ)れていたか、という点であるが、所謂(イワユル)、止揚(Aufheben)という発想である。これが、二元論からの脱却の出口だったのである。要するに、定立(These)・反定立(Antithese)・合成(Synthesis)の3形態の変容する矛盾と対立の世界に止揚の力が作用すると、矛盾する諸要素は、対立と闘争の過程で昇華され、やがて、統合の道へ進む。又、最初、否定されたものも、実は温存され、次なる高みへの飛翔を準備する。但し、これは、絶対者の意思による、と言う。

1818年、ヘーゲルは、ベルリン大学教授となった。この時期は、折悪しく、政治的に複雑な季節であり、ヘーゲルは良心的であるが故に、苦悩することになる。しかし、論争に巻き込まれたヘーゲルも、既に御用学者であって、1821年には、自分を擁護するかのような、プロイセン王国の秩序維持のための「法哲学」を出版するのである。1829年10月、ベルリン大学総長に上り詰めたヘーゲルは、もはや、次世代の味方ではなく、凡庸な保守派に成り下がっていた。

ヘーゲルの政治的姿勢は、時代の変化、あるいは、職務上の立場によって、目まぐるしく変転したが、それを非難することはできない。彼は時代を懸命に生きた一ドイツ国民であり、後にも先にも、それ以上の存在ではない。彼が、ステータスのある役職に就き、それなりの生活を享受したとしても、仮に、それが、独善的であったとしても、それが人生というものである。1830年のフランスの7月革命に、彼は賛同しなかった。もう、革命ではない、平穏が欲しい、と、彼は思った。1831年11月14日、コレラで死去。61歳。
2019年10月19日
Posted by kirisawa
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