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[残余の沈黙、あるいは、余白]
一つの見方しか無い、というのは最低だと、高田渡は言った。一つの事象に対する答えは人それぞれ、というのは、ハイデガーの言う世界内存在の見解と認識を反映したものと捉えられるが、問題は個々人によって、結論された解が全てを表象するとは、言い難く、さらなる全体像が、もし、俯瞰できるとすれば、その解もその一つとは言えるだろうが、寧ろ、そこには数多(アマタ)の、無数の解が存在すると考えるのが自然であり、それ故に、蓋然性(ガイゼンセイ)というものが担保されるのではないだろうか?
その一つの解は全体の大半を占める場合もあれば、全く一個の部分的断片であるかもしれないが、そのことをもって、全てであるかのように結論付けるのは、還元主義であって、本質を極めようとして、実は、本論から逸脱した論理に迷い込んでしまっていることに当事者(複数の場合もある。また、集団・群の場合も。)本人が既に気づかなくなっているのである。如何せん、一つの解を持って、全てを語る(「語り得ないものは、沈黙するしかない。」というのは、ウィトゲンシュタインの言葉。)ことは、不可能である。それは、あらゆる哲学書・経典・数学書に至るまで、その内容は、断片の集積であって、全てを記憶したとしても、それによって“知”を得たことにはならない。“知”とは、何か、ということになるが、それは論理ではない。常に、我々は、情報のessence(エッセンス。真意、あるいは、本質。)を取り出してanalyzeすることを心懸けておかなければならない。そして、いかなる結論が出ても、そこに論理の落とし穴がないか、逸脱はないか、還元主義ではないか、という疑念を常に持ち続けなければならない。それは、自分自身との対話(成否の確認)に根差しているものであることは言うまでもないが、それが、実は、世界内存在としてcommunicationを維持していくための最低限の、ヒトとヒト、個体と個体、との暗黙の誓約なっている、ということを忘れてはならない。
要するに、如何なる事象について思考(試行)してみても、得られる解は一つとは限らず、そこには残余の情報があり、仮に、“その他”の数多の解があると推定した場合には、余白としか表現できない未知なる情報群が残存していることになる。即ち、これも錯覚かもしれないが、個体が一つの事象について、一つの解を求め得ると結論するのは、おそらくは無理であり、その思考そのものが、はき違えられた証明理論に立脚する幻想に過ぎない。ゲーデルの言う不完全性の定理によれば、証明の一部でも否定できれば、その証明全体を否定できることになり、それゆえ、解は一つしか存在しないというテーゼは成り立たないのである。
おしまい。