チャールズ・バベッジ Charles Babbage(1791.12.26.-1871.10.18.)は知人の連れてきた女性が何故、ここにいるのか、分からなかった。1833年6月5日のことである。そこには、マイケル・ファラデー Michael Faraday(1791.9.22.-1867.8.25.)やチャールズ・ディケンズ Charles Dickens(1812.2.7.-1870.6.9.)、チャールズ・ホイートストーン Charles Wheatstone(1802.2.6.-1875.10.19.)らも同席していたのだが、誰一人、彼女について詳しく知っている者はいなかった。しかし、バベッジが、自らの発案になる階差機関について説明し始めると、その女性、エイダ・バイロン Augusta Ada Byron(Augusta Ada King)(1815.12.10.-1852.11.27.)の表情は一変し、強い関心を示した。
エイダは母の影響で数学に強い興味を持っていた。一方で、繊細な知覚の持ち主で、目標に到達できないと、そのストレスから神経症状を起こすこともあったと言う。そこで母は、手習いを始めたころから、数学の手ほどきを受けさせ、十分な思考時間を与えることによって、過敏な反応を回避し、パニックに陥らないよう、自分を制御する力をつけさせた。エイダの家庭教師には、ド・モルガンAugustus de Morgan(1806.6.27.-1871.3.18.)をはじめ、数学、科学の俊才を抜擢し、彼女が興味を持つあらゆることに対応させた。
チャールズ・バベッジが何者であるか、をまず語らねばならない。彼は、もちろん数学者である。ただ、彼は、それだけではなく、特異な頭脳と技能を兼ね備えた超人的才能の持ち主であり、史上初めての機械式計算機である階差機関・解析機関を具体的に設計し、完成は見なかったものの、製造をも試みたことで知られる早すぎた天才だったのである。しかも、この機械では、プログラムによってデータ処理が行われる現代のコンピュータと同じ仕組みが考案されていて、解析機関に至っては、パンチカードによるプログラミングも可能という20世紀レベルのシステムまで考えられていたのである。階差機関・解析機関は、現代の科学者によって、バベッジの設計通りに復元(?)されようとしている。既に、階差機関は1991年製作が完了し、その性能はバベッジが望んだとおりのものであった。解析機関の製造も続いており、2021年に完成するという。この驚異的なプロジェクトはロンドンのサイエンス・ミュージアムを中心にイギリス人科学者の手によって、進められている。
そのバベッジに近づいたエイダとは、いかなる女性であるか、というと、父はあの詩人バイロン卿、その人であり、母は、その初婚の相手アナベラ・ミルバンクAnnabelle Milbanke(1792.5.17.-1860.5.16.)であるが、夫人は婚礼後すぐ、夫の反道徳的・破戒的性格を見抜き、生後1か月の娘を抱いて、早々にバイロン邸を去ったのである。エイダはバイロンの唯一の嫡出子であったが、アナベラは、その娘の行く末をも想い、バイロンとの離婚に踏み切ったのだった。離婚は1816年4月に成立した。奇しくも、バイロンは、その足であのスイス・レマン湖の別荘へ向かったのだが、それは文学談義のためでも、シェリー夫妻に会うためでもなく、ただ身重のクレア・クレアモントに再会するためだったのかもしれない。
エイダは母の影響で数学に強い興味を持っていた。一方で、繊細な知覚の持ち主で、目標に到達できないと、そのストレスから神経症状を起こすこともあったと言う。そこで母は、手習いを始めたころから、数学の手ほどきを受けさせ、十分な思考時間を与えることによって、過敏な反応を回避し、パニックに陥らないよう、自分を制御する力をつけさせた。エイダの家庭教師には、ド・モルガンAugustus de Morgan(1806.6.27.-1871.3.18.)をはじめ、数学、科学の俊才を抜擢し、彼女が興味を持つあらゆることに対応させた。
さて、話を元に返すと、詳しくは分からないが、その後、バベッジとエイダは師弟関係となり、共同で階差機関・解析機関の試作に当たることになった。1835年、エイダはウィリアム・キング男爵と結婚したが、バベッジの研究室に通い続け、その解析機関に関する出版物の詳細情報(注釈など)を記述する一方、実際に、ベルヌーイ数の数列の計算プログラムそのものも作成して見せる活躍ぶりだった。家庭も3人の子に恵まれ、夫も伯爵に昇爵して、エイダはラブレス伯爵夫人となり、幸福が彼女を包んだ。しかし、死は足早にやってきた。子宮がんだった。36歳、何もかも早すぎる退場だった。
バベッジの妻は、バベッジがエイダと知り合う以前に死亡していた。バベッジには8人の子がいたが、成人できたのは4人だけだった。国会議員に立候補したり、インド学に凝ったりしながらも、バベッジは常に解析機関のことを考えていた。それが終生の仕事であることを自覚し、それに集中没頭しているときが無上の喜びなのであった。1871年10月、腎臓病のため死去。79歳の長命だった。
19世紀は、科学とキリスト教の格闘の時代であった。一般に、まだ神は信仰の中心にあり、科学は神を冒涜(ボウトク)する背教者のレッテルを張られていた。しかし、神を盲信する圧倒的勢力も、その実態としては、無知と現状維持とに包含された共同幻想の軛(クビキ)から逃れられない民衆であり、学校教育の進展と識字率の上昇と共に、都市部から地方へと、その数は減っていった。世界的に言えることではあるが、この時期、人類全体の知識欲というものが著しく上昇し、読書は空前のブームとなっていた。即ち、各国で識字率が向上したため、情報流通が活発化したのである。
人々の関心は想像力に直結していた。知識だけでなく、本から受ける情景のイメージも重要な要素であり、それを読者が空想することによって、読者は異空間を体験する。それが、読書の一つの醍醐味(ダイゴミ)なのであった。そこでは、魔物(霊体)と科学や発明との垣根は曖昧だった。メアリー・シェリーやエイダ・バイロンが生きた時代は、いつの時代もそうかもしれないが、進歩と反動の相克の時代であり、或る程度の財産と社会的地位を持たなければ、本音で生きることのできない社会であった。彼らには、幸運にもそれがあり、その時代の体現者としての役割も果たし、この世を去った。それは、霊体ghostから、より怪しい、機械machineの時代が訪れる直前の時代であった。