The ghost and machine memorial その1


メアリー・シェリー Mary Godwin Shelley(1797.8.30.-1851.2.1.)は、過激な無神論者ウィリアム・ゴドウィン William Godwin(1756.3.3.-1836.4.7.)とフェミニズムの創始者メアリー・ウルストンクラフト Mary Wollstonecraft(1759.4.27.-1797.9.10.)の間に生まれたが、母メアリーは10日後、産褥熱で死去した。メアリー・シェリーの名前は、ゴシック小説「フランケンシュタイン 現代のプロメテウス」の作者として有名であり、SFめいた人造人間を創造する科学者の話は、怪異な印象を人々に与えはしたが、頗(スコブ)る反響を呼んだ。それは怖いもの見たさの興味本位な関心ではなく、琴線に触れる怪物の心の動きが悲哀の中に表現されていたからに他ならない。メアリーの持つ気質は、両親の、下層民や女性など虐げられた人々への同情とその解決を迫る急進的姿勢を受け継いだものであり、そうした意味でこの作品は、今も高く評価されているのである。

もう一人、メアリーが多大の影響を受けた人物は、夫となるパーシー・ビッシュ・シェリー Percy Bysshe Shelley(1792.8.4.-1822.7.8.)である。彼がいかなる人物であったか、から話を進めていこう。
パーシー・ビッシュ・シェリーは、ギリシャ・ラテンの古典に親しむロマンチックで空想癖のある少年であったが、十代も半ばを過ぎると時勢にも流され、政治にも目覚め、啓蒙書を読み漁り、遂には、イギリスでも名のある、無神論者・無政府主義者ウィリアム・ゴドウィンの「政治的正義」にも心酔し、オックスフォードに在学する頃には、一端(イッパシ)の危険思想家でロマン派詩人という肩書を持つことになった。この青年は、官憲の監視の対象となり、その動きは、行く先々で見張られるようになっていた。1811年、パーシーは「無神論の必要(Necessity of Atheism)」を書き、そのパンフレットを書店で売り出すという大胆な行動に出た。さしもの大学も、これを容認することはできず、パーシーは放校の憂き目に遭う。しかし、この年、最初の妻、ハリエット・ウェストブルック Harriet Westbrook(1795.8.1.-1816.12.10.自殺)と結婚し、アイルランドやウェールズに遊び、カトリックの解放を唱えて回った。

1813年、待望の長女アイアンスが誕生するが、翌1814年には、妻とその姉と不和になって、騒動が始まるや、パーシーは俄(ニワ)かに、ロンドンのウィリアム・ゴドウィン宅を訪れるようになり、その娘メアリー・ゴドウィンに言い寄って、事実上の妻とした。そして、本妻ハリエットには、共同生活を提案して拒否され、メアリーの父親の怒りを買い、進退窮まると、メアリーの異母妹クレア・クレアモントClaire Clairmont(1798.4.27.-1879.3.19.)をも誘って3人で、大陸へ逃亡した。一行はスイスのルツェルン湖まで到達したが、旅費に困り、ライン川下りした後、イギリスに戻り、ロンドンで3人揃って暮らすことになった。

2年後、1816年、3人は、メアリーが産んだ生後3か月の男児ウィリアムも連れて、又しても、大陸へ向かった。今度は、明確な目的があり、それは世に公然と反逆する者同士の文学上の交流ということになっていたが、主催者が放埓で鳴らした詩人ジョージ・ゴードン・バイロン George Gordon Byron(1788.1.22.-1824.4.19.)であっては、何かしらの成果を得ることは望むべくもないと思われた。彼らが着いたのは、スイス、レマン湖畔の別荘ディオダディ荘Villa Diodatiである。バイロンとパーシーたちとの接点は、実はクレアにあり、この時、既にクレアはバイロンの子を身籠っていた。バイロンは自らの主治医で同性愛者のジョン・ポリドーリ(21歳の青年)も従えて、さながら取り巻きに囲まれたヒーローといった趣である。

しかし、外気は冷たく、とても5月半ばとは思えなかった。前年、インドネシアの火山が噴火し、火山灰が北半球を覆っていたのである。一同は、ただ、別荘に籠り、日がな一日を、小説談議に費やしていたが、或る日、バイロンが詩の朗読をしていると、突然、パーシーが悲鳴を上げて、昏倒してしまった。パーシーはすぐ、息を吹き返したので、大事なく、騒ぎも収まったが、気分を落ち着けるため、ドイツの怪奇譚である「ファンタスマゴリアナ」のフランス語訳を朗読することにした。朗読後、バイロンが、一人一つずつ怪奇譚を書こう(We will each write a ghost story.)、と提案すると、一同は、これに応じて、それぞれに構想を練り始めた。

4か月に及ぶ交流会も終わり、5人は別荘を去った。成果はあった。ここでの着想から、メアリーが1年かけて作り上げたのが、「フランケンシュタイン 現代のプロメテウス」(Frankenstein;The Modern Prometheus 1818)である。ポリドーリは、バイロン作として、「吸血鬼」(The Vampyre 1819)を発表し、話題となった。彼らは、どういった人々であったか、は余り、突っ込んで論じられることもなかったが、少なからず、革新的であり、新奇の気質に富んでいたことは認めなければなるまい。そこには、当時、科学的裏付けとなる、理論も技術もなく、未だ、迷妄の因習に支配された世界が幅を利かしていたことを考えると、その行動が如何に破天荒であったか、が判る。燻(クスブ)り続ける未知への探求心とその発露を求める欲求は、必ずしも、この時代に限らない。
2019年09月12日
Posted by kirisawa
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