“fair is foul、foul is fair”という言葉がある。William Shakespeare(1564.5.6.-1616.5.3.)の戯曲「Macbeth」の冒頭部分で怪しげな3人の魔女が呟(ツブヤ)く言葉である。それを直訳すれば、真は偽なり、偽は真なり、ということになるが、要するに、それは、表裏一対の二つの解が同居する論理的矛盾(logical paradox)を孕んだ命題であって、確かに、文学上の可逆的平衡を示唆する言葉としても解釈できるものの、そこには、何か、判然としない澱みのようなものが残存する。しかも、これは脳の意思決定のprocessの一部でもあるように思えるのである。この二つの言葉は、その意味を紐解いてみると、fairは公明正大、真善美を表し、正義善良に帰結する善意の言葉であり、一方、foulは、対立概念として、規約違反、偽悪醜を表し、邪悪卑劣に集約されるあまり好ましくない悪意の言葉ということになる。この二項対立は、解が同時に成立するとすれば、矛盾命題であり、選択のしようが無い、つまり、善意と悪意の並立という状態である。しかし、脳は選択しなければならない。ここで、規範意識は、moratoriumの状態に入る。つまり、回答を留保するのである。その結果、判断は先送りされ、命題は事後承認扱いとなり、trapを通過してしまい、結局、決定は放棄されたと同然となるのである。
脳にinputされるすべての情報は一様にcheck器官を通り、どのような処理をされるか、分類され、優先順位をつけられる。この時、概ね、処理の方針が決まり、meritとdamageに関する予測が立てられ、programが準備される。実行可能となった段階で、最終的に規範との照合が行われ、それが許可されれば行動は実行される。ここで問題なのは、決定放棄についてである。fairの場合でも、foulの場合でも、何れの場合も、行動を承認してしまうことが不可避的に起こり、大半のcaseで規範は意味をなさなくなる。それは、勿論、殆どが日常的事項に属する単純な課題であるためだが、そのため、規範checkそのものが通過儀礼(a rite of passage)化してしまい、本来の重要事項に当たる命題についても見落としや見過ごしが起こるようになり、やがては、良心の形骸化というunbelievableな(信じ難い)過ちにつながる。
規範を法として最初に制定したのは、MesopotamiaのUr第3王朝の初代王UrNummu(在位B.C.2115.頃-B.C.2095.頃)で、Code of UrNummu(UrNummu法典)と呼ばれる損害賠償を基本とする賠償請求法であったが、それから390年後に登場したCode of Hammurabi(Hammurabi法典)は、より刑罰の重い同害報復法(“歯には歯を、目には目を”)に変化していた。法の歴史を遡れば、かくも長く、太古の昔から始まったわけだが、近代の法は19世紀のNapoleon法典で集大成となり、21世紀の現在へと受け継がれて来た。そして、現在では地球環境問題など、新たな視点から、globalに対処しなければならない問題も出てきており、何れは、地球規模での法整備が必要になることは間違いないが、ヒトは未だ、心の準備ができていない。
“fair is foul、foul is fair”という言葉がある。William Shakespeare(1564.5.6.-1616.5.3.)の戯曲「Macbeth」の冒頭部分で怪しげな3人の魔女が呟(ツブヤ)く言葉である。それを直訳すれば、真は偽なり、偽は真なり、ということになるが、要するに、それは、表裏一対の二つの解が同居する論理的矛盾(logical paradox)を孕んだ命題であって、確かに、文学上の可逆的平衡を示唆する言葉としても解釈できるものの、そこには、何か、判然としない澱みのようなものが残存する。しかも、これは脳の意思決定のprocessの一部でもあるように思えるのである。この二つの言葉は、その意味を紐解いてみると、fairは公明正大、真善美を表し、正義善良に帰結する善意の言葉であり、一方、foulは、対立概念として、規約違反、偽悪醜を表し、邪悪卑劣に集約されるあまり好ましくない悪意の言葉ということになる。この二項対立は、解が同時に成立するとすれば、矛盾命題であり、選択のしようが無い、つまり、善意と悪意の並立という状態である。しかし、脳は選択しなければならない。ここで、規範意識は、moratoriumの状態に入る。つまり、回答を留保するのである。その結果、判断は先送りされ、命題は事後承認扱いとなり、trapを通過してしまい、結局、決定は放棄されたと同然となるのである。
脳にinputされるすべての情報は一様にcheck器官を通り、どのような処理をされるか、分類され、優先順位をつけられる。この時、概ね、処理の方針が決まり、meritとdamageに関する予測が立てられ、programが準備される。実行可能となった段階で、最終的に規範との照合が行われ、それが許可されれば行動は実行される。ここで問題なのは、決定放棄についてである。fairの場合でも、foulの場合でも、何れの場合も、行動を承認してしまうことが不可避的に起こり、大半のcaseで規範は意味をなさなくなる。それは、勿論、殆どが日常的事項に属する単純な課題であるためだが、そのため、規範checkそのものが通過儀礼(a rite of passage)化してしまい、本来の重要事項に当たる命題についても見落としや見過ごしが起こるようになり、やがては、良心の形骸化というunbelievableな(信じ難い)過ちにつながる。
これは何故か、と言うと、inputされた情報にどんな価値があるのか、meritは何か、statusのrank upに有利か、心にsatisfactionはあるのか、といった、自己利益優先のtrapだけが先行して処理されるからである。しかも、これはfairもfoulも問わない通常の流れなのである。仮に、fairを考えた場合でも、実質的利益である栄誉や名声、自己満足を得る、といった、一見当然とも思えることでも、よく考えてみると意図的に行えば、偽善行為(unfair behavior)とも成りかねないgray zoneに踏み込んでしまう場合もある。又、foulであっても、結果的に人を救済することも起こりえる。係る矛盾を脳は抱えているのであり、いわゆる規範意識は判然としない、曖昧模糊とした混在modeの回廊を彷徨っているのである。
分かりやすく言えば、良心に規範を一元的、厳格に規定できない最大の理由は、競争と利益という生存原理に直結した生態それ自体を個体が放棄することなど不可能だからである。もっとあからさまに言えば、打算と下心なくして、行動できないようヒトのsystemが組まれているためである。これが、本能と生存欲求という古い脳から続く宿命であり、渦巻く情動と承認欲求・愛情訴求の成長期を過ぎても、脳は、それらを理性的に制御することはできないのである。
規範を法として最初に制定したのは、MesopotamiaのUr第3王朝の初代王UrNummu(在位B.C.2115.頃-B.C.2095.頃)で、Code of UrNummu(UrNummu法典)と呼ばれる損害賠償を基本とする賠償請求法であったが、それから390年後に登場したCode of Hammurabi(Hammurabi法典)は、より刑罰の重い同害報復法(“歯には歯を、目には目を”)に変化していた。法の歴史を遡れば、かくも長く、太古の昔から始まったわけだが、近代の法は19世紀のNapoleon法典で集大成となり、21世紀の現在へと受け継がれて来た。そして、現在では地球環境問題など、新たな視点から、globalに対処しなければならない問題も出てきており、何れは、地球規模での法整備が必要になることは間違いないが、ヒトは未だ、心の準備ができていない。
これまで良心というものに抱いてきた幻想も自分自身の中の仮面でしかなかったかもしれない。宗教的思考もまた、これらの混乱の中で救いを与えることはできない。それは、ヒトの手によるヒトの行いだからである。すでに、宗教自体、戒律や教義をもってしても、ヒトの作ったものであり、神それ自体がそうである。つまり、宗教は、ヒトと同じく、混乱の混在modeの只中を漂流しているに過ぎない。科学をもってしても、この矛盾から離脱する方法は無い。ただ、ヒトは自覚することはできる。自らが、四角四面ではなく、柔軟に、正は正、邪は邪として、より良心の本質を理解し、その真理に一歩でも近づく道があるなら、その道を探求するのも一つの方法であろう。そして、自らを赦し、他者をも受け入れる心的余裕(寛容)を持つことである。これもバカげた夢想かもしれないが、行く道はこれしかない。