機内は混乱していた。この日、27歳の誕生日だった爆撃手カーミット・ビーハンKermit Beahan(1918.8.9.-1989.3.9.)は再度、再々度、目標確認をやり直したが好天にならず、残燃料も消耗し、すでに、45分を経過、日本軍機も接近、という事態に、機長チャールズ・スィーニー Charles Sweeney(1919.12.27.-2004.7.15.)は小倉を諦(アキラ)め、第二目標長崎市への移動を決断し、午前10時30分、小倉を離脱、照準を長崎に合わせた。午前10時50分、長崎到着、しかし、ここでも積雲に視界を遮られ、作戦実行不能、去就に迷う。ここで、青天の霹靂、爆撃手は言った。「街が見える。」「目標確認!」長崎市民の天命は尽きた。機長は手動投下を命令、ビーハン大尉はレバーを下げた。午前10時58分、投下、爆弾は市中心部から北へ約3キロメートルの別荘のテニスコート上空で、午前11時2分、爆発した。
被爆から間もない夏の終わり、ビーハンは長崎に入った。そこはまだ腐臭のする廃墟だったが、傷つき、横たわり、苦痛に喘ぐ人々の姿がある一方、往来に集散する人々もいて、何かしら再生の可能性がそこにはあるように感じられもした。しかし、ビーハンの苦悩は日々募っていた。「もし、自分がスイッチを入れなければ。」そんなことは表立って言えるはずもなかった。戦争を終わらせた英雄として本土へ凱旋した同僚のように、ただ紙吹雪の中を行進し、次の任務に就くだけだった。広島に原爆を落とした“Enola Gay”の爆撃手トーマス・フィアビーThomas Ferebee(1918.11.9.-2000.3.16.)は質問される度、「it was a job that had to be done(やらなければならない仕事だった。)」と答えていた。1985年、ビーハンは謝罪のため、長崎訪問を希望し、書簡を送ったが、被爆者の怒りはこれを許さなかった。彼自身の贖罪(ショクザイ)は成就することはなかった。戦争の傷は深い。例えようのない、沈濁し、澱んだ想念と葛藤が次第に渦を巻き、平穏な日常の記憶を引き裂き、憎悪に満ちた耐え難い憤激の波がそぞろに繰り返す。諍(イサカ)いは人々を苛(サイナ)み、要らぬ血を流した。
「時間は止まっていた。」と、詩人は言った。そんなはずはなかった。時間は止まったりしない。詩人は、また、言った。「時間は移ろいやすく、消え入るように過ぎてゆく幻なのだ。」と。それは真の“時”の声であり、人智の及ぶところではない。詩人の声が時空を切り裂き、空間が拡張されると、世界は消失する運命にある。詩人は自分が投影されている時空に寄りかかり、既に、決定されている未来に幻惑されたい衝動に駆られた。虚ろな幻滅がすぐそこに迫っているのであり、今の今まで、繰り返せない呪文の数々を口にしてしまったことを後悔した。詩人の最期の言葉は、怨念に満ちたそれだった。「出でよ、地獄の獣!」世界は瞬く間に消滅し、透明な幻影は存在の余地のない陽炎(カゲロウ)となって掻き消され、深い静寂だけが残った。
核戦争のボタンbuttonが何故押されたかを、詮索してみてもしようがない。そのときはそういうものなのだ。その引き金triggerを、誰が引いたか?あるいは、誰が鍵keyを開け、sealed封印を解いたか?それらは、特定できたとしても無益であろう。分かっていることは、“死death”である。そういうわけで、いつの時代か、知らないが、不幸にもそういう時が来たら、the endである。因みに、この話に出てくる文学的兵器の名は、“POEM”ということにしておこう。
1945年8月9日、午前9時40分、二つ目の原爆atomic bomb,“Fatman”を搭載したアメリカ陸軍の爆撃機B-29“Bockscar”は、大分県姫島上空に侵入し、第一目標福岡県小倉市陸軍小倉造兵廠に進路を定めた。3日前、8月6日、午前8時15分、広島に、B-29”EnolaGay“により、最初の原爆”Little Boy“が投下されており、その被害の甚大なことは、既に日本中に知れ渡っていた。日本の都市部の住民にとって、原爆という言葉だけがその被害の実情に先行し、何か得体の知れない大量殺戮爆弾がimageされ、底知れぬ絶望の気配が漂い出していた。その凄惨な身の上が、第二の実験場として俎上に上った小倉市に迫っているのだった。午前9時44分、爆撃機は目標上空に到達した。が、空域全体に靄(モヤ)が懸かっていて、視界が利かない。実は、これは前日の八幡市の空襲の煙幕の残煙が上空に漂っていたという、小倉市民にとっては九死に一生とでもいえる偶然の幸運である。
機内は混乱していた。この日、27歳の誕生日だった爆撃手カーミット・ビーハンKermit Beahan(1918.8.9.-1989.3.9.)は再度、再々度、目標確認をやり直したが好天にならず、残燃料も消耗し、すでに、45分を経過、日本軍機も接近、という事態に、機長チャールズ・スィーニー Charles Sweeney(1919.12.27.-2004.7.15.)は小倉を諦(アキラ)め、第二目標長崎市への移動を決断し、午前10時30分、小倉を離脱、照準を長崎に合わせた。午前10時50分、長崎到着、しかし、ここでも積雲に視界を遮られ、作戦実行不能、去就に迷う。ここで、青天の霹靂、爆撃手は言った。「街が見える。」「目標確認!」長崎市民の天命は尽きた。機長は手動投下を命令、ビーハン大尉はレバーを下げた。午前10時58分、投下、爆弾は市中心部から北へ約3キロメートルの別荘のテニスコート上空で、午前11時2分、爆発した。
被爆から間もない夏の終わり、ビーハンは長崎に入った。そこはまだ腐臭のする廃墟だったが、傷つき、横たわり、苦痛に喘ぐ人々の姿がある一方、往来に集散する人々もいて、何かしら再生の可能性がそこにはあるように感じられもした。しかし、ビーハンの苦悩は日々募っていた。「もし、自分がスイッチを入れなければ。」そんなことは表立って言えるはずもなかった。戦争を終わらせた英雄として本土へ凱旋した同僚のように、ただ紙吹雪の中を行進し、次の任務に就くだけだった。広島に原爆を落とした“Enola Gay”の爆撃手トーマス・フィアビーThomas Ferebee(1918.11.9.-2000.3.16.)は質問される度、「it was a job that had to be done(やらなければならない仕事だった。)」と答えていた。1985年、ビーハンは謝罪のため、長崎訪問を希望し、書簡を送ったが、被爆者の怒りはこれを許さなかった。彼自身の贖罪(ショクザイ)は成就することはなかった。戦争の傷は深い。例えようのない、沈濁し、澱んだ想念と葛藤が次第に渦を巻き、平穏な日常の記憶を引き裂き、憎悪に満ちた耐え難い憤激の波がそぞろに繰り返す。諍(イサカ)いは人々を苛(サイナ)み、要らぬ血を流した。