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最初にきーんどなるど氏のことを知ったのは、まだきーん氏がDonald Keeneドナルドキーン氏で、唯一、日本の王朝文学を研究する外国人であった頃のことであり、「源氏物語」に造詣が深く、当時、この研究では日本人にも引けを取らない比類なき存在であった。そして、1968年の川端康成(1899.6.14.-1972.4.16.)のノーベル文学賞受賞には、陰に陽に氏の力が働いていたという動かしがたい事実があり、それによって、戦後日本の文学界に王朝文学の継承的発展という新たな道が開いた功績は高く評価されてしかるべきことである。
そもそも、氏がいかなる理由でこの日本に興味を持ったか、いくら調べても確たる事実はやぶの中、といった次第で本当のところは全く分からない。1941年にある書店で初めて「源氏」を手に取った時から、という説は氏もよく語っているところだが、それによって初めて日本を知った訳ではなく、東洋に関する知識の中にあっただろう。既に、10代半ばには、Harvardの学生であった彼は、法律・歴史から世界情勢まで広範な知識の持ち主であり、熱心な学究の徒であった。その彼が、本邦の文化に関心を示したことは、日本の幸福といって過言ではないだろう。氏は戦争中、太平洋方面に志願し、戦地で情報収集と分析を担う任務にあたり、数多くの日本兵の残した日記を回収し、克明に記されたその内容から、日本人の国家観、家族観、内情・心情を読み取り、深く感ずる所があったと語っている。
日本文化を研究していく中で、氏は、当初、礼儀正しさ慎み深さという観点から“静”の文化という見方を示していたが、後年、それは、わび・さびという言葉に集約される“寂”(あわれ)の文化であったという一つの到達点に達したものと思われる。即ち、静寂という境地にたどり着いたのである。
「源氏」の中のdramaには言及しない。それは、氏のprivateの領域に属するものである。