いでんしじょうほうこうがく その1 漂流する未来像


進歩か?進化か?当惑の未来。ボクたちは何処へ行ってしまったのか?

霧中(夢中)の森の奥に迷い込んで、もう長い。何処へ行くのかも、もう思い出せなくなってしまったと、思い込んでみる。だが、それは嘘だ。僕たちの行くべき世界は変わっていない。確か、あの月を見たのは、思い出の中に、記憶の片隅で、今も心なしか悲哀を感じる初秋の夜である。あそこまで、もう何回も宇宙船は行っている、往復しているではないか。ボクは思った。限りない未来、そして栄光。それは約束された行程表であり、そうなるべき、あるいは、はずと信じていた。だから、すでに環境破壊に苦しみだしていた地球の同じ住民であるその人々の実態には、ほぼ無関心で、いのちの重さというものも解らず、“夢”見ていた。水俣で起きていたことも、ユージン・スミス(William Eugene Smith 1918.12.30.-1978.10.15.)の写真で知ったが、愚かにも、偶発的な例外の一部に過ぎないと、深く考えることもなく、無論、その人々が健康な体を取り戻せるならイイのに、などと、まったく他人事で、同情でもなく、思いやりでもない無神経な、今考えると蒙昧な、情けない子供だったことに、今更ではあるが、本当にガッカリする。
石牟礼さん(石牟礼道子1927.3.11.-2018.2.10.)の苦海浄土(〈苦海浄土わが水俣病〉(1969))も知らなかった。彼らの活動を知るのは、もうアポロ計画(Apollo program 1961-1972)が終わった後で、多分、エコロジーecologyが急に騒がれだしていたころである。それにしても、石牟礼さんの一生は患者たちとの親密なるコミュニケーションcommunicationの下、忍耐と患者への労りに全力を注いだ一生だったといえる。彼女は告発者であっただけではなく、彼らの事実上の庇護者であり、“家族”であり続けた。誰にでもできることではない。

ボクたちの世界は、今、“経済economy”という、欲望を数値化して流通させることによってさまざまな価値交換を行うtrading methodを採用し、決済手段としているわけだが、このやり方が、必ずしも最善の有効手段なのか、どうか、は、ボクには分からない。このsystemは、多分、数量計算による等価交換を基軸に、モノや情報の移動を保証するもので、時系列的にもすでに長期にわたり機能してきたものであるが、その根幹をなす価値判断は量的体系に依存し、質的構造には、寧ろ、希少価値という点からしか、触れられなかったし、相対的に計量という実体的にも明瞭な基準値の存在が確認できるものに限定して考えられてきた。
しかし、現在、ボクたちは圧倒的な情報社会の只中を生きており、知的財産権の渦の中にある。これまでは、それは特許権・著作権として一律に保護されてきたと考えられるが、今や、果たしてどうだろうか?思うに、知財の所有権は今、まさにキカイの側にも与えられようとしているのかもしれない。もはや、キカイ無しには、数理的文法は成り立たなくなりつつある。科学と銘打つ、あらゆる論文の論証においてはキカイの力無しでは全く成立しない。更に、論理的諸文法においても、AIの普及により、キカイに頼る傾向が顕著である。こうなってくると、知財の所有権は一般的に個人に帰属すること自体不自然である。まして、cloud情報を参照したりすれば、どこまでが個人の能力で、どこまでが集団の裁量なのか、判断できず、付いては、財産権そのものの帰趨も怪しくなってくる。
従って、経済の価値基準は、ある意味、今世紀において、思うと思わざるにかかわらず、変質、もしくは、変貌することは避けられないのではないか、と愚考する。ここで情報のqualityについて考えよう。この時代、明らかな事変は、たゆまない連続的変化が常態となったことである。このような状況下において情報はより高密度、より高精細、より確実性が要求されており、それが情報の質を規定するmain factorであることは言うまでもない。ところが、こうしたものを経済価値として裏付ける法的整備はなされていない。そもそも、基準が示されない。こうした立ち遅れは、やがて何らかの矛盾に至る。これも又、難問となるだろう。

キカイ自体にも難点はある。それは、“熱”の問題である。キカイの冷却にかかる負担の軽減については統計上のデータはないので、おそらくは、ということしか言いようがないが、この問題の重要性、緊急性はすぐ認知されなければならない。5Gの本格的応用が現実の日程に上る2020年代中葉には電力消費量の割合は、いくら省力化しても数十倍、あるいはそれ以上であり、これに対処するには格段の消費電力の低減を実現するための、何らかの諸分野の技術開発能力の結集が必要となるだろう。
冷却の問題は今に始まったわけでもなく、通常キカイcomputerを複数設置して作動させるときには、必ず対処しなければならない、言ってみれば、必要悪であって、日常避けて通れない事項であるから、今までのdataから有効な経験知が大量に蓄積されていると思われるが、実は記録に残る具体的事例よりも、そのessenceであるrangeに着目すべきかもしれない。ご存じの通り、仮想通貨のマイニングminingには相当数のキカイが使われており、ここで発生する“熱”を処理するには大量の水を消費しなければならず、それに充てられる費用もばかにならない。miningが盛んな現場が中国・ロシアという二国に偏っていることとこの“熱”とは無関係ではない。立地条件として、はっきり言ってあまり温暖であるとは、言えないが、要するに、冷却に費やす経費が割安なのである。こうなると日本でも北海道など適地ではないかと考える向きもあるだろうが、そうは問屋が卸さない。ダメなのである。物流上の問題で、日本ではcost performanceが悪く折り合わないという。文字通りの皮肉である。

最後に、直面する基本問題へ話題を変える。ボクたちは、AI、5G、block chainという、これまでバラバラに取り扱ってきたITの最先端技術の更なる革新と総合化が目の前に迫っていることを知っている。IoT、connected car、automatic driving、remote control system、wearable devise、3D printer factory、personal home robot etc. これから始まる5G応用の時代は、単なるinnovationの時代ではない。すべての機器が音声入力・音声応答が可能となり、その場でdocument outputも可能、wirelessで瞬時にblock chain の大量fileの相互転送可能、と言ったあらゆるモノ・情報が相互に結合し、分解し、必要なモノを必要な時に必要なだけ取り出せる社会が実現しようとしているのだ。その相関的相互補完、あるいは互換がもたらす複層型の相乗的技術革新は、今まさに始まろうとしている。それによって、世界がどう変わるか、どうあるべきか、は予想しようもないが、それはもう、現実である。未来は来た、のかもしれない。

2019年04月19日
Posted by kirisawa
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