不躾にも程がある、今や妄念の虜となったボクはうたた寝状態で開けられない瞼のまま怒りの視線を“女”に向けた。彼女はボクを見据え、動じる様子もなく、困惑する風でもない。何なんだ、こいつ。いつか、その、つじつま合わせの毎日に汲々とするしかない自分自身をもう一度、今は何の価値もなくなった真実の鏡の前に立たせて、虚実ないまぜでしか自分を表現できない彼女自身の“誠実さhonesty”とは何なのか、その真意はどこにあり、いつまでに具体表示できるのか、など拷問してやる、とボクは心mindに誓った(マルキ・ド・サド(Marquis de Sade 1740.6.2.-1814.12.2.)の「悪徳の栄え」(原題「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え l’Histoire de Juliette ou les Prosperite du vice」(1797~1801))の映画(directed by Roger Vadim1928.1.26.-2000.2.11.)のポスターを見たのは、丁度、東京オリンピック(1964)の前後で、ちょっと小学生の感覚では、やはり性的な訴求心理に訴えられても、見てはいけないもの、という規範上の先入観によって、blockされて一瞬たじろぐものの、見なければならないという使命感とも思える特殊な好奇心に背中を押され、忽ち、愚問のspiralに落ちること無く、まじまじと見入ってしまい、性的感傷というと、いささか大げさであるが、そういう気分に酔ったことを、ここで白状する。)。
この瞬間沸騰した思考が、過去2年10ヵ月余りの“女”との付き合いの全てを総括し、万人が万人のためにする好意というものは、結局は自らが自らになす行為という形でしか、昇華しきれない、という偶然性の排除の論理に封殺されたまま、passion spiralのblack holeへとボクは落下した。その途端、永久(トコシエ)の悲しみが発露して、涙はあふれ、嗚咽は止まらず、この不条理の責め苦から抜け出す出口を見つけようと、ボクはあがいた。
渾身の力でそれを振り切ろうとしている自分がいた。“女”はボクを抱きすくめ、須(スベカ)らく、睡魔(酔魔)の術中から救い出そうと、耳元で何か言った。何と言ったのか、定かではなかったが、Pandoraの、その言葉だけが、否、声がボクの中枢を保持する最高の、もう一人の自分からのmessageとして(何故、“女”をそう思うのか、今でもわからない。おそらくは、遺伝子情報によるものだろうし、そういうsystemなのだと、思えばいい。)、あるいは、adviceとして、各々の日常のすべてについて応諾するのは無理としても、認め合い、支え合おうと誓った、あの夏の夜の記憶を呼び戻そうとしていたのかもしれない。既に、trioのsound of musicは佳境に入っており、縺(モツ)れ合う不協和音にもかかわらず、予定調和の中、終曲に向かっていた。
そう、ギリシャ神話では、創造された”女“は彼女だった。時空は過ぎ行くままに、真の記憶を遠ざける。何もかもが交錯する、価値の定まることのない時代の只中を、何のためらいもなく、裸で歩いていたようなものだ。二人は、まだ、知る術がなかった。兆しもなく、visionすらなく、あからさまに互いを見ることもなかった。
二人は路上にいた。それは各々の軌道上の一地点であって、その行く先を知ることはできない。遠慮しがちな街路樹の小径の緑は煌めいて、光は“女”の視線を遮り、歩道のタイルに届いた。“女”のillusionは忽ち消え去り、現実の、さまざまな色彩が街中に蘇り、明滅を繰り返しながら大気の彼方へと舞い上がって行く。
1972年だった。ニクソン(Richard Milhouse Nixon1913.1.9.-1994.4.22.)は、北京へ行き、毛沢東(Mao ze-dong 1893.12.26.-1976.9.9.)と会見し、アメリカと中国の和解が演出された記念すべき年で、Vietnum warの出口が見えたかのように錯覚した。佐藤栄作(1901.3.27.-1975.6.3.)も消え、平民宰相の登場で、時代は確かに変わった。
Pandoraとボクは、既に蜜月状態にあり、この妬ましい時代の変化にも、別段感じるところも無く、ただ充足した安らぎの中にあった。平穏無事であり、それは何を以ってか、孤立無援の二人の平和であり、世界から断絶した平和であって、small world lovers のsmall world storiesの一場面に過ぎないことは二人にもわかっていた。
あのstudent powerは死んだ。神が死んだように(あるいは、猫が死んだように)。よく分からないまま、各々その当事者の一人としてmovementにも絡み、それなりの結果を出すべく行動したこともあったが、また、その成果の定着を図ったが、すぐ下の学年には後継となる集団は確認できず、幻の自由(学生自治などといった)はやはり幻に終わった。過ぎ行く“時”は過ぎ、去るべき人は去った。しかし、虚しく気怠い、物憂げな空気の底にボクたちは沈殿していた。これが平和だった。
物語が意味するところに従って、シラケタ空気の街に彷徨い出ると、何の希望もない、成り行き任せに暮らしていたボクは、今は、もう誰一人集まらない、あの軋轢のあった通りの一角、通りの片隅にあった喫茶店(夜はbar)に吸い込まれ、いたたまれない空気の充満している奥の、かつての指定席に座った。嫌だった。ここであったくだらない出来事の数々が、否が応にも脳の奥底から炭酸水のように湧き上がってきて、その記憶にボクは、苛(サイナ)まれているのだった。しかし、そんなボクの動揺は、Pandoraに伝わるわけでもなく、彼女の記憶の一部でもあるボクの、あるいは、ボクたちの軌跡は、今や充足された偽りのsuccess storyとしか表現しようない、もう振り返るべきでない混濁した記憶の彼方に遠ざかりつつある幻想なのであった。だから、仕方なかったのだ。見捨てたもの、置き去りにしたものは、それだけの価値でしかなく、役に立たなかったからではない。捨てるほかなかった。生き延びるためには!“もう無罪放免よ。”Pandoraは符合するように言った。
肩の荷を下ろせと言われても、この喜劇的結末をどう昇華しろと、笑えというのか?ボクは、どんよりと沈下した、何か得体のしれない物質と化した自分を認識し、頭の中で毒づいた。何故、こんな所で子供のように拗ねる真似などするのか!やりきれない不完全燃焼の混沌の波動が押し寄せてきて、只ならぬ抑圧の到来を予感させる日が続いているのだ。誰かswitchを、早くswitchを。ボクは、混乱している。それは分かる。苦痛だ。今助けを求めているのは、悔恨の淵に追い詰められているボク自身に他ならない。もう回想してはならない。早く常軌に復帰せねば。shot glassで 7つ程やり、酔いは回っていた。ボクは、ただ、憂鬱だった。悪い酒だ、吞まれている。もうそろそろ、と思うのだが、不覚。“あなたにだって、あの人たちにだって、帰るところはあるのよ。“その言葉が何を意味するか、ボクは瞬時に理解できない。店はjazz trioのliveでsound machineと化しており、何か、侮蔑的な、あるいは、見下された視線を感じてボクは思考停止に陥り、その意識は拡散して酩酊の域に達した。
不躾にも程がある、今や妄念の虜となったボクはうたた寝状態で開けられない瞼のまま怒りの視線を“女”に向けた。彼女はボクを見据え、動じる様子もなく、困惑する風でもない。何なんだ、こいつ。いつか、その、つじつま合わせの毎日に汲々とするしかない自分自身をもう一度、今は何の価値もなくなった真実の鏡の前に立たせて、虚実ないまぜでしか自分を表現できない彼女自身の“誠実さhonesty”とは何なのか、その真意はどこにあり、いつまでに具体表示できるのか、など拷問してやる、とボクは心mindに誓った(マルキ・ド・サド(Marquis de Sade 1740.6.2.-1814.12.2.)の「悪徳の栄え」(原題「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え l’Histoire de Juliette ou les Prosperite du vice」(1797~1801))の映画(directed by Roger Vadim1928.1.26.-2000.2.11.)のポスターを見たのは、丁度、東京オリンピック(1964)の前後で、ちょっと小学生の感覚では、やはり性的な訴求心理に訴えられても、見てはいけないもの、という規範上の先入観によって、blockされて一瞬たじろぐものの、見なければならないという使命感とも思える特殊な好奇心に背中を押され、忽ち、愚問のspiralに落ちること無く、まじまじと見入ってしまい、性的感傷というと、いささか大げさであるが、そういう気分に酔ったことを、ここで白状する。)。
この瞬間沸騰した思考が、過去2年10ヵ月余りの“女”との付き合いの全てを総括し、万人が万人のためにする好意というものは、結局は自らが自らになす行為という形でしか、昇華しきれない、という偶然性の排除の論理に封殺されたまま、passion spiralのblack holeへとボクは落下した。その途端、永久(トコシエ)の悲しみが発露して、涙はあふれ、嗚咽は止まらず、この不条理の責め苦から抜け出す出口を見つけようと、ボクはあがいた。
渾身の力でそれを振り切ろうとしている自分がいた。“女”はボクを抱きすくめ、須(スベカ)らく、睡魔(酔魔)の術中から救い出そうと、耳元で何か言った。何と言ったのか、定かではなかったが、Pandoraの、その言葉だけが、否、声がボクの中枢を保持する最高の、もう一人の自分からのmessageとして(何故、“女”をそう思うのか、今でもわからない。おそらくは、遺伝子情報によるものだろうし、そういうsystemなのだと、思えばいい。)、あるいは、adviceとして、各々の日常のすべてについて応諾するのは無理としても、認め合い、支え合おうと誓った、あの夏の夜の記憶を呼び戻そうとしていたのかもしれない。既に、trioのsound of musicは佳境に入っており、縺(モツ)れ合う不協和音にもかかわらず、予定調和の中、終曲に向かっていた。
想っていた。それはまだ最後の夜などではない。ボクたちは寧ろ、うまくいっていた。それは受容と赦しの相関であり、ボクたち二人には、そういう“愛”があった。しかし、二人とも生き方は乱暴であって、それを認めてくれるような大人はいなかった。その頃、巷では,翔んでる何とか、というphraseが出始めていたが、そんなlife styleの変化など、ただ場違いなだけであって、実は、ボクたちの世代とは、少なくともボクたちとは、全く相容れないものだった。
“女”とは、1974年に離別し(結婚してはいなかった。)、彼女は最初のPandoraだった。ボクたちの離別は“解消・解散”である。その最大の理由は世の中との齟齬、時代の変化に対する互いの立ち位置の違いによるものであって、しかも“愛”は多分deep thinking loveへと深化し、それぞれが独立しようとしていた(独立独歩。一身独立して、一国独立す。)ためであり、従って、二人が共同で生活する理由はすでに無かった。
それからの5年で、ボクは不必要な“愛”を含め、不必要な、かつ、十分な経験を積み(今振り返ればそうでもない。)、いわゆる大人になった(かなり、怪しい。)、と思う。Pandoraたちは、どこに行ってしまったのか?ボクには分からない。要するに、愛想がよく、外見もよく、ただ身長がイマイチだったボクは、“女”たちにとって適当なaccessary的“男”として、都合がよかったという側面もあっただろう。(異性としていえば、こちらもmascotteとして、そっちこっち連れ歩いたことは事実なので、痛み分け。)だが、人生にとってPandoraの存在は絶対不可欠であることは論を待たない。それが無ければ、“愛”は成就しないばかりか、文明のqualityを保つことすらできない。こんなことを書くから、又、訳が分からない人だ、と言われるのだが、これは、“風が吹けば桶屋が儲かる”式のいたって単純な論法で説明できる話なので考えてみてほしい。
Pandoraのpithos(甕、もしくは、壺)に関するepisodeは広く知られている通りだが、この逸話については、かなり意味深な、かつ、難解な全体像を持つstoryの一部であることが判明している。成立した時期は、ホメロス(Homerus B.C.8C生存)の「イリアスIlias」とほぼ同時期、乃至は、その前後と考えられ、作者はヘシオドス(Hesiods B.C.8C 生存)という農民詩人で、やはり叙事詩を得意としていた。Hesiodsはギリシャの創成期に関心があり、その神話と伝承について、他の追随を許さない教養を有し、それは二つの著作に結実した。一つは「神統記」、もう一つは「仕事の日々」である。この二つの著作は、現在、ギリシャ神話として語られる物語のほぼ全部の出典であり、ギリシャ神話と言えば、即ち、これに由来するものである。
ヘシオドスの創作意図は、あまり考えられてこなかったが、当時の社会は女性という、異なる性の存在に対し、少なくとも、男性側から見て必ずしも同等の権利を持つ存在とは規定する状況にはなかったものと推測される。(つまり、差別意識があった。)そういうわけでPandoraのepisodeはアンチフェミニズムantifeminismの物語として語られてきたのだが、現在の言語学は、この表面的な、というより、文学の表現上の一面に過ぎない解釈に一石を投じた。それは次のようなことである。
そもそもこの話には前段があって、それはPrometheusの逸話として知られる、神と人間の出会い、より明確に言えば、Prometheusにより創造された生き物である人間と既存の生き物である神との間に生じた諸案件についての摩擦の物語である。Prometheusは自らの創造物が、神の劣位に立たされ、服従させられることに怒り、Zeusが禁じていた“火”を人間に付与した、という。結果、人間は“知”を持つこととなり、神の優位は半減した。Zeusはすぐに“知”を“愚”とすべく、人間の女の創出をHephaistos(ZeusとHeraの第1子)に命じた。画して、人間の女は誕生し、その名をPandora(万物の付与者の意)と名付けられ、地上に行くように命じられてEpimetheus(Prometheusの弟)のもとに送り込まれ、彼の妻として暮らすこととなった。
時が満ち、Zeusはその好奇心の誘惑に女がどこまで我慢できるか、試すためpithosを預け、許し無く封を開けてはならぬと、釘を刺して去った。この話、いつ聞いても意地悪だ。神々の中の神をしてこの器量、器が小さい。義に背き、自分自身をも欺き、背信の極みではないか。神らしからぬ神の御業に失笑を禁じ得ぬ。しかし、神なのである。一方、人間は神ではない。神ならぬ身の人間である。しかも“女”、封を切ったからといって責めを負うこともあるまい。例え、あらゆる不幸が地上に降り注いだとしても。それに勝る“希望”を手に入れることが出来たではないか。というオチである。しかし、ここで終わりではない。
どうして、ここにpithosなどという器が登場してきたか?という謎がある。遠回りは避けよう。これは子宮を象徴する物体で、その中は人生の縮図そのもの、喜びも悲しみも、怒りも苦しみも、あらゆるものが封じ込められ、時が満ち、外の世界への扉が開くのを待っている、のだそうだ。そして、そうなった。最後に出てきた、希望は次の世代を暗示するもので、これでstoryは完結する。と、これでもまだ、storyの構造上の問題が残るという。それが、この、PrometheusとEpimetheusの物語という、核となるこの二人の名前に隠された、もう一つの解釈である。
すでにお気づきの方もおられると思うが、よくprologue,epilogueなどと小説に使われる言葉だが、pro-とは、前、epi-とは、後ろ、のことであり、ここで出てくるtheusとは、思考する・考えること、を意味する。要するに、このstoryは、前編・後編からなっていて、内容的には、前編で行われた思考(試行)を後編で検証し、結論するという構造になっているのであり、そのthemeこそ、人間そのものであって、苦難の時を経て、光明の未来への可能性を暗示するという、必ずしも、happy endとは、言えないにしても、それなりの結末が用意されていたのである。すなわち、Prometheusとは、先に考える者(予測する者)、Epimetheusとは、後で考える者(検証し、反省する者)ということだったのである。従って、このstoryは因果律を内包した一つの説話であって、そこには、越えてはならない一線、という教訓がある一方、人間の男と女の成り立ちと、そこに内包される人生の意味を解き明かす手立てを与えてくれる示唆に富んだ、謎解きの寓話なのである。