自我と人格 extra edition その2(前編)


“7つの大罪”をsamplingしたのは、とりとめもない理由であったが、宗教団体に限らず、教訓めいた話をpropagandaにすり替えることは、ボクたちの社会ではよくあることで、改めて指摘するほどのことではない。しかしながら、この行為の背後にある後ろめたい恥ずかしさは何処から来るのか、といったことを考えると、この行為自体の偽善性が相対的に浮上してくる。要するに、これは、自己欺瞞であり、欲望に突き動かされた利己的行為に過ぎず、 それ故、それは、集団の維持を目的とする脳内の規範意識からの逸脱行為であって、それが“原罪”、あるいは、“言われ無き罪悪感”を醸成する因(モト)になっていると考えるべきであろう。いわゆる、“良心”の呵責、と言うものである。この規範意識を解明する前に意思決定の仕組みについて復習しておこう。

ヒトの意思決定は大脳新皮質によって行われることは何度か触れているので、深くは説明しない。ただ、動機の形成と目的の設定は、その報酬系と呼ばれる経路による成果予測から始まる一連の流れの中で生じるものであり、最大最良の成果をsimulateし、self- monitorしながら実行されることは確認しておくべきだろう。そして、これが承認欲求の実現を企図するものである以上、当然、見返り(成果・報酬;労働の場合は対価。)を要求するものであり、結果を予測することはそうした意味でも重要なのである。しかし、予測は予測に過ぎない。行為の成功・失敗は、予測のみによって規定される訳でもなく、それは現実の反映であって、個体の意思決定だけに左右されるものでもない。ただ、ヒト社会においては、この意思決定には、規範という一つの制約が課されていると考えるべきかもしれない。如何に、成果予測によって、莫大な利益が得られるとされても、それが公共の利益と合致しない場合、それは非とされる、それが社会(群れ・集団)を維持するうえでの制約、即ち、規範なのである。

では、この規範意識に先立つと思われる“原罪”の起源は何処にあるのか?これは、おそらくは、脳の発生に遡る細胞分裂による遺伝子DNAの分化に起因するものである。そう仮定すると、それは、生まれる以前から脳に組み込まれた遺伝子情報に基づく本能的反射から組成される危険回避反応の一種である、と連想できる。何故なら、本来、意識が生じ、無意識と分離する2,3歳頃にならないと、“怯え”(恐怖体験の記憶による予感)は発生しない。これは哺乳類脳の段階と考えられ、扁桃体と海馬の情動記憶経路が作動して初めて機能する仕組みであることから考えても、これ以前に危険回避に機能するsystemは爬虫類脳の段階では、この本能的反射以外に無いからである。

従って、実は、規範意識よりも、“原罪”の発現の方が明らかに早いのである。つまり、規範意識は、意識の覚醒の後に位置する機構であることが判る。では、ここで生じる規範の概念とは何かを少しずつ探っていこう。そもそも、規範とは、個体と個体とが、摩擦なく行動するための合意事項であり、摂食行為・生殖行動・睡眠などに対する妨害行為の禁止から始まったと推測できる。それは物心両面のterritory(縄張り)を相互に確保するために必然的に発生したものであったが、集団の拡張は、ここに悪意ある者、つまり、意図的に侵犯する者、あるいは恣意的に欺く者を生むに至り、さらには、それに報復する懲罰刑が公認され、規範は“法”として明文化されるようになっていった。

悪とは、何処から生じるのか、と言えば、それは奪い合い、闘争(競争)からである。競争は動物集団の本質(生態原理)に他ならず、放棄することのできない習性(業・宿命)であって、ヒトが心理的に克服する努力を続けてきたものの、満足する結果はいまだ得られていないのが現状である。ただ、生計に余裕が出てきた分、一部でそれは緩和されてきたことも事実である。しかしながら、根源的な部分での悪意は消滅する気配はない。悪意の根源に何があるのか?おそらく、悪意の本質は妬み(欲)である。その主な要因は較差である。しかし、ヒトは満たされていれば、悪意を抱くこともなく、平穏に暮らす。多少の較差はあっても、ほぼ満足の状態、日常をやり過ごしていける状態であれば、悪意の表面化すること はない。悪の本質ということを書いたが、それは脱落に対する不安が潜在していることを意味しており、実存の消滅ということこそ、その根底にある心理なのである。そして、他者(あるいは、集団)から存在を否定される可能性が示唆された段階で、反発する個体は悪意を抱くのである。

自覚があるにせよ、無いにせよ、良心は、最後の善意の砦であり、感情的であったり、加虐的であったりする暴力の芽を摘むためにこそ存在している。暴力とは、物理的なものだけではない。救援を求める声に耳を貸さず、病んでいる者を見捨てることも、人を蔑(サゲス)み、嘲(アザケ)ることも、暴力である。個体と個体、集団と集団の間で起こる諍(イサカ)いはこの暴力の応酬となってしまう。そこには、利益占有・侵犯疑念・名誉棄損といった争乱の下になる物理的事由の他に生理的反発という御しがたい感情も作用し、無用の対立を煽っている。これを克服する方法はcommunicationによる情報交換しかない。その目的は他者理解に尽きる。同情・共感systemを理解し、相互承認の輪を広げていく他ない。良心は暴力を制御する力であり、削(ソ)ぐ力である。
2019年03月24日
Posted by kirisawa
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