ここで、一つの事例として、”7つの大罪”を取り上げよう。これは、中世のキリスト教会で、宗教上の命題のすり替えが行われ、一つの教示がpropagandaに変化した実例である。これをsamplingする理由は、宗教団体とはいえ、ヒトの集団であることに変わりなく、利害得失によって、利用できるものはすべて利用し、自分に都合のいいものは都合よく持ち上げて、効果的に使おうとする具体例だからである。
”7つの大罪”とは、トマス・アクィナスThomas Aquinas (1225頃-1274.3.7.)、ダンテ・アリギエーリDante Alighieri (1265-1321.9.14.)(代表作「神曲」;原題は、「Commedia(喜劇)」)、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(1749.8.28.-1832.3.22.)(代表戯曲「ファウストFaust」)らの作品に引用され、キリスト教の習俗的な戒律に取り上げられてきた罪悪の典型とされるものである。トマス・アクィナスは大著「神学大全」の中で、その7つとは、虚栄(inanis gloria)、嫉妬(invidia)、怠惰(acedia)、憤怒(ira)、強欲(avaritia)、貪食(gula)、淫蕩(luxuria)のことだ、と述べている。しかし、これは対義的記述であって、7つの論拠を述べたものではない。
それでは、この生理的衝動である生存欲求と脳の関係について、若干説明しておく。いわゆる生存欲求は、起源的には間脳・小脳という本能を司(ツカサド)る領域(第1層の脳。爬虫類脳。)と情動の発生・記憶領域である扁桃体・海馬・側坐核(第2層の脳。哺乳類脳。情動・記憶・学習。)の両領域に由来するものであり、ここでいう“8つの誘惑”も、もし、完全に否定されるとすれば、それは自身の死を意味する。それは、取りも直さず、修行自体が未完に終わることであり、行動目的の破産である。従って、この場合には、理知的判断能力のある前頭前皮質(第3層の脳。人間脳。論理的思考・客観的判断・推論・予測)はいかなる結論に達するか、と言えば、それは当然、生体保全を選択するのである。それは、真理追及の命題を生存欲求に優先させても、生命活動が停止することになれば、元も子もないからであり、いかなる場合でも、自ら、死を選ぶ、つまり、自殺を自己目的とすることは、自己の存在否定であって、そうした決定は、優先度の高い生理的衝動を引き起こす消滅欲求が生じない限り、起こり得ない。この消滅欲求は、近未来への悲観から生じるが、その根幹には不安からくる恐怖心がある。(こうした思考矛盾をthemeとした事例に「2001年宇宙の旅」(2001:A SPACE ODYSSEY)のHAL-9000の”故障“があるが、人間の場合、精神障害の一因となると考えられる。)
そもそも、“神”という概念が、何故、普遍的性格を持ち、何故、人類全体が同一image、同一主体を認知するのか、何故、その非存在性を認識しつつ、正統性を共有するのか、など観念的思考を動員しても、実証的根拠を得るのは難しい。剰(アマツサ)え、“神”ついて、不完全ながら、具体的、かつ、明確な性格付け(例えば、主Masterは天に住まう、など。)までなされていることを考えると、これは、想像上の動機付け以上のものがあると断定するほかない。となれば、その概念の背後には、実は、かなり込み入った科学的背景があり、それを突き詰めていくことが、この問題の核心であるといえるだろう。つまり、何らかの生理的作用がそこにはあり、そのsystemの探求にこそ、問題解決の糸口があると考察される。
ここで、一つの事例として、”7つの大罪”を取り上げよう。これは、中世のキリスト教会で、宗教上の命題のすり替えが行われ、一つの教示がpropagandaに変化した実例である。これをsamplingする理由は、宗教団体とはいえ、ヒトの集団であることに変わりなく、利害得失によって、利用できるものはすべて利用し、自分に都合のいいものは都合よく持ち上げて、効果的に使おうとする具体例だからである。
”7つの大罪”とは、トマス・アクィナスThomas Aquinas (1225頃-1274.3.7.)、ダンテ・アリギエーリDante Alighieri (1265-1321.9.14.)(代表作「神曲」;原題は、「Commedia(喜劇)」)、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(1749.8.28.-1832.3.22.)(代表戯曲「ファウストFaust」)らの作品に引用され、キリスト教の習俗的な戒律に取り上げられてきた罪悪の典型とされるものである。トマス・アクィナスは大著「神学大全」の中で、その7つとは、虚栄(inanis gloria)、嫉妬(invidia)、怠惰(acedia)、憤怒(ira)、強欲(avaritia)、貪食(gula)、淫蕩(luxuria)のことだ、と述べている。しかし、これは対義的記述であって、7つの論拠を述べたものではない。
この原典というか、原本は、ポントスのエウァグリオスEuagrios Pantikos(345-399)という修道僧の書いた「修行録」であり、その中に“8つのrogismoy(想念)”という記述がある。それをかいつまんで言うと、修行に集中して取り組もうとしている時に起こる、精神統一を阻害する想念(誘惑)であり、それは、貪食、淫蕩、金銭欲、悲嘆(心痛)、怒り、acedia(怠惰の意味だが、この当時、安息日に働く者も怠惰、とする不文律の戒律があった、という。)、虚栄心(自惚れ)、傲慢、の8つを挙げることができる、と書かれている。これらは全て、ヒトの日常生活の中で、ほぼ誰しもが感じる生理的欲求に裏打ちされた感情が表出したものであり、度を越せば問題であるが、平常では一時の気の迷いという程度で済んでしまう類(タグイ)のものである。しかしながら、空腹で幻覚を見るような行者にとっては、やはり、別なのかもしれない。修行のような特殊環境に置かれた人格は自らを律し、自らを鼓舞し、保持しなければならない。その修練のための精神修養は必須であり、避けては通れないのだろう。そうした意味で、“8つの誘惑”という概念が創出されることになったのは、頷(ウナヅ)けるような気がする。
それでは、この生理的衝動である生存欲求と脳の関係について、若干説明しておく。いわゆる生存欲求は、起源的には間脳・小脳という本能を司(ツカサド)る領域(第1層の脳。爬虫類脳。)と情動の発生・記憶領域である扁桃体・海馬・側坐核(第2層の脳。哺乳類脳。情動・記憶・学習。)の両領域に由来するものであり、ここでいう“8つの誘惑”も、もし、完全に否定されるとすれば、それは自身の死を意味する。それは、取りも直さず、修行自体が未完に終わることであり、行動目的の破産である。従って、この場合には、理知的判断能力のある前頭前皮質(第3層の脳。人間脳。論理的思考・客観的判断・推論・予測)はいかなる結論に達するか、と言えば、それは当然、生体保全を選択するのである。それは、真理追及の命題を生存欲求に優先させても、生命活動が停止することになれば、元も子もないからであり、いかなる場合でも、自ら、死を選ぶ、つまり、自殺を自己目的とすることは、自己の存在否定であって、そうした決定は、優先度の高い生理的衝動を引き起こす消滅欲求が生じない限り、起こり得ない。この消滅欲求は、近未来への悲観から生じるが、その根幹には不安からくる恐怖心がある。(こうした思考矛盾をthemeとした事例に「2001年宇宙の旅」(2001:A SPACE ODYSSEY)のHAL-9000の”故障“があるが、人間の場合、精神障害の一因となると考えられる。)
ところで、エウァグリオスが意図したのは、宗教上の修行に関する一般的な教示であり、仏教的に言えば、一種の解脱を得るための“我慢“であって、それは自身の欲望を制御することに他ならないのであり、又、それは、要するに、修行には、精神的自覚が必要で、その宗教上の目標に到達するために、生理的な誘惑を退けることは有効である、という基本姿勢を敢(アエ)て指摘・強調したに過ぎない。ところが、後年、どういう訳か、その著作の一部だけが、教会によって流布され、いつの間にか、“8つの誘惑”は”7つの大罪“という本来の趣旨とは相容れない言葉にすり替えられてしまい、さらに、多くの文人に引用され、教導の常套句として、世界を堕落させる諸悪の根源、の意味になり、人間を断罪する材料に利用されてきたのである。