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深夜の都会のアパートメントの一室。ローラ・ニーロ(Laura Nyro 1947.10.18.-1997.4.8.)のニューヨーク・テンダベリーが、静寂の中を流れ、1960年代の、あの疲れを思い出させる。行方知れずの明日が、又、始まる。夜は、みっともなく、無残に老(更)けていく。
人間は酔う。酔うのである。酔わずにはいられない。
勿論、何よりも、自分に酔い、見境もなく、酒にも酔うのだが、ムードにも弱く、忽(タチマ)ち、その場の雰囲気にも酔ってしまい、取り留めもない行状に及んでしまったりして、取り返しのつかぬ始末となってしまったりする。
自己陶酔、という言葉がある。作家に、半井桃水(1861.1.12.-1926.11.21. 万延元.12.2.-大正十五.11.21.)という者がいて、樋口一葉(1872.5.2.-1896.11.23. 明治五.3.25.-明治二十九.11.23.)なるうら若き物書きに、淡くほのかに恋慕されたりしたのであるが、或る冬の朝、二人は共に、互いに酔った、というか、静かに打ち溶けた、だけでなく、それぞれ、己にも酔いつつ、雪のちらつく戸外を意識しながら、二人だけでお汁粉を食べた、それだけであった。尚、二人の名誉のために言っておくが、この朝、一葉は所用があって、桃水を訪ねたのであり、前日より滞在していた由(ワケ)ではない。そうして、これが、一葉の、記録に残る唯一の、デートらしいデートだった。一葉は、この記憶を、この一部始終を、丁寧に、日記に綴った。自己陶酔の極致(キワミ)。と言っては失礼であるか。
小説家は自分の書いたものに酔い、役者は自分の演技に酔い、映画監督は出来上がった映像(エ)に酔い、作曲家は自分の作った音楽に酔い、画家は自分の絵の中に酔い、彫刻家はその作品に酔い、アスリートは自分の記録に酔い痴れる。その状況の中に身を窶(ヤツ)すことによって、己の内的な充足感を満足せしめる何者かの働きがあり、そのエクスタシーの果てにあるカタルシスを得るための除外できぬ有用不可欠な行為の予感がそれを追求させるのだ。
夢想するとは、そういうことである。夢は、そもそも、幻覚である。それは、酔った状態と言える。自己陶酔とは、幻覚状態の置き土産であって、正常な思考状態とは異なる。芸術家の創作活動中の意識は、どちらかと言えば、ノーマルな状態ではなく、寧ろ夢想状態であり、陶酔状態と言っていいだろう。しかし、平常な状態で、夢現(ウツ)つ。それは、ちょっと、マズイんではなかろうか?ところが、人は多かれ少なかれ、平常で、程度に差はあるものの、こうした状態である、という。いわゆる、“自覚”といった状態が既にそれなのだ、という。つまり、自意識を自覚した時点で、酔ってしまう、のである。
そうすると、自分の人生はヨッパライの一生ということになる、のか?マア、いい。要するに、極端になると、自意識過剰という状態になってしまい、枠をはみ出てしまうっていうことだ。ヒトラーなんかがそうだ。つまり、行き過ぎは、どこかで是正しないと、とんでもない結末が待っているってことである。節度ある態度、大事である。何事も自重自省が肝要、という、お話だったのかも。そうだったかな?