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自己とは、何か?自分自身とは?
DNAのどの部分か、に、それはある、と、考えられてきたが、そんな単純なものではないことが、近年の成果で分かってきた。DNA内部でのそれぞれの相互作用とその様々なコンビネーションの総体化されたものとして、それは遺伝子上に表層する現象、機能であるらしい。それは、それ自身、一つのシステムであり、単独で成立するわけではないが、独立した機構、メカニズムを持っている。それは、個体を統べる、脳の前頭前皮質部分の機能と繋がってはいるが、それとは、また別の個体全体の情報系の新陳代謝に関与する枢要部分であり、機動的に全体をマネジメントするサポート・ポジションにある。それを、仮に、内的体系と、呼ぶことにして、話を進めよう。
ヒトは、誰も、自我を核とする内的体系を持っており、それは、しかし、自我以前の、誕生前に遡る受精時に起源を持つ遺伝子生成から、つまり、情報の入力開始と同時に組成されたものであり、誕生後の脳の発達に伴う身体の成長と人格形成の進展に並行して情報の集積・分類・選択が行われる過程を経て、より高度な段階へと進んでいく、と考えられる。しかし、この方向付けが、動機付けがいつ行われるか、は、まだ、判然としない。脳の三層構造の発育と相関があるか、どうか、の論証も行われていない。欲求成長説は、それ自体、怪しくなってきているし、人格形成論だけでは否定も肯定もできない。ただ、このシステムは、三歳児以降、と限定すれば、自覚、乃至は、自由意思、という作用と重要な相関があることは疑う余地はない。ということは、このシステムは、極めて柔軟で、後天的環境からも十分影響を受け得るということである。
ここで、内的体系が、ヒトが外界情報と接触した場合のことを考えてみよう。この外界情報は、無数の有形無形の媒体から成る不特定の情報体系の集合である。これを、外的諸体系、と仮称する。この外的諸体系の主体は、生命体であれ、無機物であれ、植物であれ、建物であれ、それぞれ、固有の様々な情報を持っていて、内的体系は、それらの情報に接することによって、自己認識を高め、又、自己の好悪の感情の内も知り、自己の価値観をより高度なものへ拡張していくことができるのである。つまり、内的体系とは、個体独自の情報編成集積体系であり、その構築には脳だけでなく、全身細胞のDNAが関与する総合的なシステムであって、情報を、逐次、アップデートし、最新の解答を常時、提供する機能のことなのである。
従って、固定的に結論された情報を維持するのではなく、常に、可変的な更新作業を行うことによって、情報の見直しを繰り返し、より、信頼性の高い解答へと内容を収斂していくのである。それは、外的諸体系からの情報の流入と内的体系の情報編成の組み替えによって、良くも悪くも、個体の価値観が大きく、変容し、これまで、肯定してきたものを否定し、否定してきたものを肯定することになったり、これまでになかった要素を承認したり、全てを破棄することさえあるかもしれない。これらの新たな入力された情報を、それが、必要か否か、有害か、無害か、損か得か、役に立つか、要らないものか、有益か、無益か、などを斟酌し、取捨選択を行わなければならない。こうした選択判断は、全般的には、脳の本能と報酬系の機能に依存すると思われるが、身体細胞も何らかの形でこれに加わっていると考えるのが妥当だろう。
現在、DNAの98%は未解析の状態である。既に、解読され、広くその内容が知られるようになった2%の部分は、遺伝子と呼ばれ、世代交代による様々な生理的形質、及び、疾病体質の伝搬や継承に関係することが明らかにされている。これまで、このDNAの設計図であるゲノムgenome解析は、そのたんぱく質の変異を調べるために相当の時間を必要としていたが、近年、高速のDNAシーケンサー sequencerが開発され、1日で処理が終わる機械も登場している。しかも、近日、AIを搭載した、ターゲット・マーキング機能を装備した新製品の投入も迫っており、ゲノム解析は一気に進む可能性がある。しかし、解析結果の分析や、応用方針・分野などは、すぐに、特定できるものでないことは、これまでの経験的プロセスからはっきりしている。いくら、結果が先行しても、ヒトが、必ずしも、追いついていけないことは、歴史が証明済みである。
それにも関わらず、事物は、立ち止まろうとはしない。ボクたちの頭脳は、もはや、脳単独では、用をなさないことを明らかにしている。ボクらは、思考系、という考え方をしなければ、説明しようのない、様々な事象に向き合わざるを得なくなっている。そして、これを説明するうえで、最近、注目を集めている、エピジェネティクス epigeneticsというDNA配列変化に寄らない遺伝子発現を制御・伝達するシステムとも関係する、独立した細胞群である情報流通媒体としての身体と、バランス・制御機関としての脳を繋ぐ、一連の流れそのものに、何らかの“意”がある、と感じるのである。これは、気の迷いであろうか?
確かに、ボクたちは、少しずつ、核心に迫ってきているようである。今世紀中に、ボクたちは、仕組みに到達するかもしれない。しかし、今は、推論に過ぎない。推論は推論であって、結論ではない。結論はないのかもしれない。時々、そう、思う。ありきたりの、誤算なのかも。