あるいは、巷には這い上がることもできない人々がいて、その救済のため段階的な解決策を提示する者もいる。しかし、それは世代をまたぐ解決策であり、路頭に迷う人々と子供たちにとっては何の意味もないだろう。彼らの求める救済とは、最悪、日々の糧であり、jobである。彼らが無知であるという理由を持って、内心、侮蔑の対象にしている人々にも罪があることも認めなければならない。その人々は見て見ぬ振りを決め込んでいて、もっと裕福な階級の人々がすべきことだから、と、嘯く(ウソブ)くだけである。彼らには成す術がない、ということか。バカげたことだが、trickle down effect を信じてはいないだろう。目の前に、本当にhungryな人がいるとき、成すべきことは何なのか、誰もが知っている。僅(ワズ)かでも与えられるものがあれば。
彼らに理解できなくとも、ボクには分かっていた。日増しにそれは大きくなっており、それは欠乏を意味していた。彼らの世界では何もかもが不足し始めていて、それ故、彼ら自身の思考は閉じてしまい、その牢獄から脱出する方法を見つけることもできず、絶望という現実を受け入れる他、選択の余地はなかった。
あるいは、巷には這い上がることもできない人々がいて、その救済のため段階的な解決策を提示する者もいる。しかし、それは世代をまたぐ解決策であり、路頭に迷う人々と子供たちにとっては何の意味もないだろう。彼らの求める救済とは、最悪、日々の糧であり、jobである。彼らが無知であるという理由を持って、内心、侮蔑の対象にしている人々にも罪があることも認めなければならない。その人々は見て見ぬ振りを決め込んでいて、もっと裕福な階級の人々がすべきことだから、と、嘯く(ウソブ)くだけである。彼らには成す術がない、ということか。バカげたことだが、trickle down effect を信じてはいないだろう。目の前に、本当にhungryな人がいるとき、成すべきことは何なのか、誰もが知っている。僅(ワズ)かでも与えられるものがあれば。
抑圧が温かいはずはない。不幸を受け継ぎ、卑屈さを受け継ぎ、虐げられる毎日を日常にし、脱出の糸口すらなく、一生を終えることを運命として受け入れよ、と、告げることが貴方にはできるか?マア、そんな場面には自分は出くわさない、と貴方は言うかもしれない。そう、貴方はそういう所へは行かない。貴方の日常と彼らの日常は違う。勿論、ボクの日常でもない。日常は交わらないのである。しかし、この無関係さこそ、ボクたちが、現実と呼ぶものである。現実は目の前に突き付けられたときはじめて現実となるのであり、日常へ土足で割り込んで来るものなのである。
彼らは、ボクたちの最大多数最大幸福社会がもたらした犠牲者、である。ボクたちの社会は産業構造の中核にある人々だけを大切にする少数切り捨て社会であり、その産業構造からはみ出し、落ちこぼれ、無用のものと締め出された人々の日常は、僕たちの日常から切り離された無情の現実なのである。ボクたちは幸福な日常に飼いならされた子羊であって、現実を目の当たりにすることもなく、日々是、好日、と恙なく(without incident)、日を送れればそれでいいのである。そして、彼らは、貧しくもつつましい清貧の生活を、innovationの恩恵を受けることもなく、孫子の代になっても人々の良心と善意に縋って続けていくのだろう。