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ヒト社会の中で、序列は必然の産物であり、概念上も固定的に扱われる優先命題の一つであるが、その時系列上の(歴史上の)意義、また、発生・存立の事由について陳述された論説には出会ったことがない。しかしながら、この序列、及び、較差というものが、ヒトの出現以来、今日に至るまで、個体と個体の間に横たわる、あらゆるgapの平準化の阻害要因となってきたことは論を待たない。この事実が、宗教をはじめとする階層を持つ社会集団の発生、そして存在の基本要因を形成していることに留意して、論を進めることにする。
ヒトは、何時からか、平等という概念を抱き、その実現に取り組み、邁進してきた。(このこと自体、既に、gap、即ち、較差が歴史を遡って、遥か昔から問題となっていたことを示している。)この較差は、根源的な意味で“貧富の差”に帰着する。過去においては、奴隷制が存在し、そのファンダメンタルズfundamentalsの 一つとして数えられるものが債務であったことからも、較差は、ヒト社会の負の要素として認識されるべきものであったといえる。較差は、能力差によるものであり、必ずしも経済較差につながらない、とする論調もあるが、如何なる能力であろうと、生産性を持つものである限り、経済価値に置き換わるという基本原則は不変であって、従って、そのような論調は欺瞞である。確かに、価値が置き換わる、置換現象というものが、何にでも当てはまるものではないけれども、能力というものは、abilityとskillから生じるあらゆる意味での処理能力を担保する言葉であることを考えると、これは立派な経済行為であり、議論の余地はない。
比較的最近のことではあるが、古代において、計量による価値のtradingが行われていたことを示す考古学上の発見が相次ぎ、その具体的な実態が明らかになった。小麦は、1鉢で10を担保する、と確定され、ほかの物品と交換することができた、という。これは収量が安定してきたことも明らかにする一例である。経済の安定は、まだこの段階では、較差の是正には遠く及ばないけれども、飢えからの解放という点で一歩前進ではあった。
だいぶ本論から離れてしまったが、宗教成立の本質が、経済上の矛盾から生じたものである以上、これを無視することはできないので以上のような論説となった。しかし、それは違う、心の問題だ、とする見解も否定するものではない。これは、ヒト社会の目指してきた世界がどういったものだったか、という議論から探ってみよう。
ボクたちの前の前の世代が理想として掲げてきたのは、全人格社会というeliteも非eliteも存在しない、解放と救済が実現した、自由で平等な“目あき”の社会であった。このような“哲人”だけの社会は果たして、人々に“幸福”をもたらすことができるだろうか?innovation
も止まり、歴史は衰退の道を歩むことになりはしないか?その社会が終着点なのか?少なくとも、それが実現したとしても、最大多数の最大幸福である以上、落ちこぼれは落ちこぼれとして、minorityは必ず取り残される運命ではないか、そうして澱んだ下層社会が残存する未来が永続するとすれば、それは生きながらの責め苦に耐えながら、決して来ない救済の日を待ち望む、永久に見捨てられた人々に、自身の存在理由を喪失するに等しい運命の受諾を迫るものであろう。
これでは、較差による歪みである“妬み”は絶対に克服できない。ヒト社会の最も忌むべき膿(ウミ)である“妬み”は、実は、信仰と表裏一体の較差gapが産んだ聖心と野心のわだかまりに起因する負の情動であって、宗教とは、この“妬み”に収斂された深い底辺にある、どす黒い血球のような恨みの感情を浄化して、脳の機能を安定に戻し、stressを除いて、初期状態にするために、ヒト社会が編み出した知恵だったのである。(それはdrugによるtripとある意味同じものである。)
ボクたちは、究極の未来に向かって進化している存在などではない。将来がどうあれ、今、ボクたちは様々なモノと向き合い、それぞれが様々な状況下で、苦悶し、愛し合い、争い、対立し、和解し、成長し、各々の日常と対峙している。歴史の帰結を考えるも良し、自由や愛、平和、人権に想いを致すのも良し、しかしながら、それ以上に、先ずボクたちは現存在にして世界内存在である自己を意識し、能力に応じて現実に適切に対処していくことに注力すべきであろう。現在、社会が抱えている様々な矛盾、dilemmaにこそ眼を向け、その解消に力を尽くすべく日々を送ることも無益ではないだろう。
この行動に参加するのに改まった資格など関係ない。Diversityの時代である。老若男女、誰でもいいのである。誰彼を問わず、やれるところからやれる範囲で参加する。それだけで、着実に一歩一歩進んでいくことができれば、それでいいではないか。気負うこともなく、自分のpaceで歩んでいくことが大切である。自由への道はまだ遠いかもしれない、差別意識もなくなることはないかもしれない、だが、関心を持たず、傍観しているだけでは一歩も進めない。それは明らか。自分の良心の声に耳を傾け、踏み出してみよう。