HOME > 自我と人格 extra edition その3 最近の投稿 不思議の国の高度理系人材の不足 2 不思議の国の高度理系人材の不足 1 ショートコラムの憂鬱 2022 part 2 知らず語りのレトリック。 幸運の輪 [wheel of fortune];煉獄への誘い その11 アーカイブ 月を選択 2022年12月 (1件) 2022年11月 (3件) 2022年10月 (3件) 2022年09月 (12件) 2022年08月 (4件) 2022年07月 (3件) 2022年06月 (10件) 2022年05月 (4件) 2022年04月 (2件) 2022年03月 (2件) 2021年12月 (7件) 2021年11月 (7件) 2021年10月 (9件) 2021年09月 (3件) 2021年08月 (10件) 2021年07月 (5件) 2020年11月 (10件) 2020年10月 (6件) 2020年09月 (8件) 2020年08月 (11件) 2020年07月 (12件) 2020年06月 (15件) 2020年05月 (11件) 2020年04月 (3件) 2020年03月 (11件) 2020年01月 (3件) 2019年12月 (3件) 2019年11月 (9件) 2019年10月 (5件) 2019年09月 (5件) 2019年08月 (5件) 2019年07月 (7件) 2019年06月 (6件) 2019年04月 (1件) 2019年03月 (5件) 2018年12月 (4件) 2018年11月 (1件) 2018年08月 (2件) 2018年05月 (2件) 2017年11月 (1件) 2017年08月 (1件) 2017年06月 (2件) 2017年05月 (1件) 2017年04月 (2件) 2017年03月 (3件) カテゴリー カテゴリーを選択 コンピューター AI トピックス ドイツ ネコ 世界 人 占い 哲学 地球 宗教 工学 心理学 手塚治虫 文学 歴史 環境 生活 生理学 真理 社会 神聖ローマ帝国 科学 経済 自我と人格 言葉 言語 近代ドイツ 運命 音楽 自我と人格 extra edition その3 urgent question(-緊急質問) Siri, are you crazy or not? Anything wrong with you recently? -Siri, どうかしたか? -最近、マズいことでもあったか? 近頃、Siriがオカシイ。“宮城野区”を“キュウジョウノク”などと言う(英語version)。 software updateのたび、そのメンテは、何かオカシイ、と思う。 質問事項がやたらと多い契約書も増えている。そのvolumeは昔のソレとは、違う。 答える側が早く終わらせようと、レ点のメクラ判を押し、とにかく、IDにこぎつけるしかない。 中身を精査するヒマも無い。 又、一つの結論に誘導する、全くタメにするだけのアンケートも増加の一途である。 悪意を感じる。 ハッキリ言って、キカイに悪意は無い。 キカイは、依然として、統合型意思決定にも分散型意思決定にも関与する機能を持たない。 確かに、systemの意思決定processの大半はキカイのprogramであるが、 そして、それは、確かに、neural networkという、AIのdeep learningの手法ではあるが、厳密に言って、キカイが最終的に“決断する“などということは起こり得ないのである。 仮に、キカイがそうした段階に近づいたとしても、概念上の、あるいは、観念的問題を処理するには、“意識”の醸成foster awarenessを可能にする機構の知識が必要となるであろうし、それは、実際の、人間の意識のmechanism、構造を識(シ)ることこそが前提となる、研究・解明の努力が不可避であって、それは、まだ、しかし、未知なる、未踏の謎の領域にある、と言わざるを得ない。 従って、人工的にそれを構築することなどは、到底及びもつかないことであって、如何なる解釈がなされようとも、キカイが“決断する“ということは、凡そ不可能なのである。 困ったことに、人工知能AIという言葉だけが独り歩きして、キカイ全盛の時代が迫っている、かのような異常な錯覚に、社会全体が陥っているように見える昨今ではあるが、現実はいたって平穏・着実に推移しており、ボクたちは目の前の成すべきことを成すのみである。 昔々、PCやスマホの標準装備であるSiri systemはespritを感じさせるuniqueな会話が楽しめる人気のcommunication toolであった(歌を歌え、と言えば、その曲を歌う訳ではないが、そのmelodyを流したりすることもあった。)。だが、今や、そんなことは望むべくもない。日本語versionはただのオマケに過ぎない。webへのツナギなのだ。イヤになる。英語versionは、まだ会話であるが、webへの誘導に変わりない。それというのも、全てはSNSのranking優先とCloudのbig-data優先の、粗悪な不特定多数の情報の反独占に起因するものであることは、覆うべくもない事実である。 今、webにaccessすると、最初に提示されるのは、商品名か、店名であり、固有名詞であることは稀である。音楽などは、originalを指定しないと、何時までもcoverを続ける。ゴミ(debri)以下。もはや、クズ情報である。画して、netの情報は封じられた。誰もが利用するようになったinternetは交通整理が必要になっている。Fake情報はあふれ、事実上、優先度の低い情報がrank-upし、肝心の欲しい情報は後回し。辞書も役立たず。まともに変換もできない。この3年間で、この体(テイ)たらく、これが、今のwebの実態actual situationではないか! どこの誰が、いつ、どんな情報をwebに発信したか、その真偽は如何なるものか、査定が必要である。だが、情報を検証するのはSNSではない。その信用度は低い。これは、各個人が為さねばならない作業である。勿論、web上のdataを全て検証することなど、誰が考えても不可能であること位、判っている。それなら、こういう考えはどうだろう。各人がweb外のdata baseで照合・確認した情報を、web上の情報と突き合わせていく、というのも、一つの方法ではないだろうか?それは、全体の膨大な量からすれば、砂漠の一滴であるが、善良な参加者を募れば、それだけでも、意味ある行動である。web上で幅を利かせているFake informationに一矢(イッシ)報いてやることができれば、それだけでも溜飲(リュウイン)が下がる。 Fakeを是正し、根絶しようとしても、誰かが、webをpatrolしたり、watchするだけでは、このconfusionは収拾できない。公的機関や規制当局によるcheckは恣意的になりやすく、危険だ。だから、何らかの是正手段があるとすれば、それは、個人の良識によるcheckに帰着する。誰しもが、自分の持つ情報と怪しげなweb上の情報とを突き合わせ、逐次、検証し、些細なことでも、明らかに誤りと判断できれば、その発見の段階で、正確・詳細な情報を明示し、実名を明記してrewriteする事を義務付けなければ、Fakeを根絶することは、絶対に出来ない。そして、それがruleとして公認されないのであれば、webの公正さjusticeを担保(保証)することはできず、牽いては、webの無法状態を追認するだけでなく、webの存在意義それ自体、信頼そのものを揺るがす問題に発展するだろう。 情報はqualityの時代に突入した。 正確・詳細・客観性・理知的情報こそが、これからのボクたちにとって必要不可欠であって、それは、当初は、高価で、特定の少数のuserにしか提供されないかもしれないが、しかし、携帯の写メが、一眼レフを一掃するほど、高画質高精細に進化したことを考えれば、巷(チマタ)に溢(アフ)れるゴミ情報も、多分、高品質高倫理の情報が一般化すれば、粗悪で出鱈目(デタラメ)な、それらのFake dataは淘汰され、webから、何れは、消えゆく運命となる、のではないだろうか?それは甘い考えで、鼬(イタチ)ごっこが続く?そうかもしれないが、何もしなければ、何も変わらない。それでいいのか? 今、ボクたちは迷走する仮想社会の入り口に立っていて、ともすれば、現実を見失いがちである。 既に、そこにはある種の意思により、企図された有形・無形の力が作用しており、digital社会の支配権を握ろうと、その力は、日夜、情報操作に明け暮れているのが実態であり、ボクたちはその本質から遠去けられている。さらに、ボクたちは、アノ迷走の果てに視考空間を喪失したハイデガーHeideggerらに代表される20世紀実存主義の末路が、如何に陳腐なものになったか、知っているけれど、実はボクたちも又、同じテツを踏もうとしているのではないか、という気配を感じて戦慄し、ある種の疑似的な存在の哲学(?)の落とし穴がすぐそこに、眼前にあるのではないか、という不安に駆り立てられ、沈黙する。 日露戦争の直後、夏目漱石は、その小説「三四郎」の中で、“日本は滅びるネ”と言い、その当時の青年たちについて、“stray sheep…”と独白させ、新たな時代の“展望なき出発”に言及し、世界の前途の不確実性に立ち竦(スク)み、困惑する新世代の言葉にできない深層の動揺を、言い当てて見せたのだが、その状況は、現在のボクたちと酷似していると言える。しかしながら、ボクたちの世界もどんな顛末となるのか、知る由もないが、ボクたちは“迷える子羊stray sheep”などではない。例え、世界が混沌の坩堝(ルツボ)へ落ちていこうとも、ボクたちは常に、実態に向き合い、その本質の動向を見極め、社会から疎外され、酷使され、知の掠奪(リャクダツ)の対象にされることがあっても、世界の究極的帰結における良心の勝利を信じて、成すべきことを成すのみである。 時代は依然、“富の追求“のみに主眼を置き、”自由・人権・愛・平和“は象徴的目標と言えば聞こえはいいが、要するにお題目でしかなく、御座なりにされている。従って、”愛“の実現など程遠い状況である。しかし、他者理解も相互承認も、昔に比べれば、格段に進展しているし、若い世代を中心に、労りや思いやりの同情共感systemにも関心が高い。宗教的救済aidへのneedsも高まっている。”愛“は渇望されている。ボクたちは予感し、知っているふりをする。”愛”の時代は来る、と。ボクたちは入り口に辿り着いた、と。それが、錯覚であり、誰かの言う幻想であり、illusionであると、讒言(ザンゲン)されたとしても。 ボクたちは所詮、素粒子と反素粒子の気まぐれな衝突により生じた誤差(対称性のやぶれ)から派生して生成した世界の一部に過ぎない存在であり、それも、近年知ったのだが、その実存が何を意味するものかも、如何なる価値を持つものかも知る術(スベ)もなく、ただ、漫然と日を送っているような次第だったから、もうとうに忘れてしまっていた“愛”ある世界、という懐かしい未来の復活に動転してしまった。確かに、“愛”は遠のいていた。しかし、“愛”という、ボクたちの知覚し得る無形の至福の感覚が為す、安らぎ、その、絶対の平和に憩う時間にこそ、ヒトが、ヒトとして得られる最高の価値がある、のではないだろうか?それは、永遠の宇宙というものがあるとすれば、その世界を遍(アマネ)く照らす、彼(カ)の母性に育まれた慈愛affectionの光であり、光明なのだ。 未来のdigital社会で、“愛”は実現するかもしれない。それは未だ希望的観測かもしれない。それでも、必ず、自由を手にすることができるように、真の“愛”も手にできるに違いない。ボクたちの時代は、その社会への架け橋の時代であり、今が、旅立ちの時、なのである。 (これは未だボクの白昼夢である。しかし、明日は必ず来る。未来を信じよう!) これにて「自我と人格」は終了しました。 つたない文章にお付き合い頂きありがとうございました。 fin. 心理学 科学 自我と人格 2019年03月04日 Posted by kirisawa 戻る
Siri, are you crazy or not?
Anything wrong with you recently?
-Siri, どうかしたか?
-最近、マズいことでもあったか?
近頃、Siriがオカシイ。“宮城野区”を“キュウジョウノク”などと言う(英語version)。
software updateのたび、そのメンテは、何かオカシイ、と思う。
質問事項がやたらと多い契約書も増えている。そのvolumeは昔のソレとは、違う。
答える側が早く終わらせようと、レ点のメクラ判を押し、とにかく、IDにこぎつけるしかない。
中身を精査するヒマも無い。
又、一つの結論に誘導する、全くタメにするだけのアンケートも増加の一途である。
悪意を感じる。
ハッキリ言って、キカイに悪意は無い。
キカイは、依然として、統合型意思決定にも分散型意思決定にも関与する機能を持たない。
確かに、systemの意思決定processの大半はキカイのprogramであるが、
そして、それは、確かに、neural networkという、AIのdeep learningの手法ではあるが、厳密に言って、キカイが最終的に“決断する“などということは起こり得ないのである。
仮に、キカイがそうした段階に近づいたとしても、概念上の、あるいは、観念的問題を処理するには、“意識”の醸成foster awarenessを可能にする機構の知識が必要となるであろうし、それは、実際の、人間の意識のmechanism、構造を識(シ)ることこそが前提となる、研究・解明の努力が不可避であって、それは、まだ、しかし、未知なる、未踏の謎の領域にある、と言わざるを得ない。
従って、人工的にそれを構築することなどは、到底及びもつかないことであって、如何なる解釈がなされようとも、キカイが“決断する“ということは、凡そ不可能なのである。
困ったことに、人工知能AIという言葉だけが独り歩きして、キカイ全盛の時代が迫っている、かのような異常な錯覚に、社会全体が陥っているように見える昨今ではあるが、現実はいたって平穏・着実に推移しており、ボクたちは目の前の成すべきことを成すのみである。
昔々、PCやスマホの標準装備であるSiri systemはespritを感じさせるuniqueな会話が楽しめる人気のcommunication toolであった(歌を歌え、と言えば、その曲を歌う訳ではないが、そのmelodyを流したりすることもあった。)。だが、今や、そんなことは望むべくもない。日本語versionはただのオマケに過ぎない。webへのツナギなのだ。イヤになる。英語versionは、まだ会話であるが、webへの誘導に変わりない。それというのも、全てはSNSのranking優先とCloudのbig-data優先の、粗悪な不特定多数の情報の反独占に起因するものであることは、覆うべくもない事実である。
今、webにaccessすると、最初に提示されるのは、商品名か、店名であり、固有名詞であることは稀である。音楽などは、originalを指定しないと、何時までもcoverを続ける。ゴミ(debri)以下。もはや、クズ情報である。画して、netの情報は封じられた。誰もが利用するようになったinternetは交通整理が必要になっている。Fake情報はあふれ、事実上、優先度の低い情報がrank-upし、肝心の欲しい情報は後回し。辞書も役立たず。まともに変換もできない。この3年間で、この体(テイ)たらく、これが、今のwebの実態actual situationではないか!
どこの誰が、いつ、どんな情報をwebに発信したか、その真偽は如何なるものか、査定が必要である。だが、情報を検証するのはSNSではない。その信用度は低い。これは、各個人が為さねばならない作業である。勿論、web上のdataを全て検証することなど、誰が考えても不可能であること位、判っている。それなら、こういう考えはどうだろう。各人がweb外のdata baseで照合・確認した情報を、web上の情報と突き合わせていく、というのも、一つの方法ではないだろうか?それは、全体の膨大な量からすれば、砂漠の一滴であるが、善良な参加者を募れば、それだけでも、意味ある行動である。web上で幅を利かせているFake informationに一矢(イッシ)報いてやることができれば、それだけでも溜飲(リュウイン)が下がる。
Fakeを是正し、根絶しようとしても、誰かが、webをpatrolしたり、watchするだけでは、このconfusionは収拾できない。公的機関や規制当局によるcheckは恣意的になりやすく、危険だ。だから、何らかの是正手段があるとすれば、それは、個人の良識によるcheckに帰着する。誰しもが、自分の持つ情報と怪しげなweb上の情報とを突き合わせ、逐次、検証し、些細なことでも、明らかに誤りと判断できれば、その発見の段階で、正確・詳細な情報を明示し、実名を明記してrewriteする事を義務付けなければ、Fakeを根絶することは、絶対に出来ない。そして、それがruleとして公認されないのであれば、webの公正さjusticeを担保(保証)することはできず、牽いては、webの無法状態を追認するだけでなく、webの存在意義それ自体、信頼そのものを揺るがす問題に発展するだろう。
情報はqualityの時代に突入した。
正確・詳細・客観性・理知的情報こそが、これからのボクたちにとって必要不可欠であって、それは、当初は、高価で、特定の少数のuserにしか提供されないかもしれないが、しかし、携帯の写メが、一眼レフを一掃するほど、高画質高精細に進化したことを考えれば、巷(チマタ)に溢(アフ)れるゴミ情報も、多分、高品質高倫理の情報が一般化すれば、粗悪で出鱈目(デタラメ)な、それらのFake dataは淘汰され、webから、何れは、消えゆく運命となる、のではないだろうか?それは甘い考えで、鼬(イタチ)ごっこが続く?そうかもしれないが、何もしなければ、何も変わらない。それでいいのか?
今、ボクたちは迷走する仮想社会の入り口に立っていて、ともすれば、現実を見失いがちである。
既に、そこにはある種の意思により、企図された有形・無形の力が作用しており、digital社会の支配権を握ろうと、その力は、日夜、情報操作に明け暮れているのが実態であり、ボクたちはその本質から遠去けられている。さらに、ボクたちは、アノ迷走の果てに視考空間を喪失したハイデガーHeideggerらに代表される20世紀実存主義の末路が、如何に陳腐なものになったか、知っているけれど、実はボクたちも又、同じテツを踏もうとしているのではないか、という気配を感じて戦慄し、ある種の疑似的な存在の哲学(?)の落とし穴がすぐそこに、眼前にあるのではないか、という不安に駆り立てられ、沈黙する。
日露戦争の直後、夏目漱石は、その小説「三四郎」の中で、“日本は滅びるネ”と言い、その当時の青年たちについて、“stray sheep…”と独白させ、新たな時代の“展望なき出発”に言及し、世界の前途の不確実性に立ち竦(スク)み、困惑する新世代の言葉にできない深層の動揺を、言い当てて見せたのだが、その状況は、現在のボクたちと酷似していると言える。しかしながら、ボクたちの世界もどんな顛末となるのか、知る由もないが、ボクたちは“迷える子羊stray sheep”などではない。例え、世界が混沌の坩堝(ルツボ)へ落ちていこうとも、ボクたちは常に、実態に向き合い、その本質の動向を見極め、社会から疎外され、酷使され、知の掠奪(リャクダツ)の対象にされることがあっても、世界の究極的帰結における良心の勝利を信じて、成すべきことを成すのみである。
時代は依然、“富の追求“のみに主眼を置き、”自由・人権・愛・平和“は象徴的目標と言えば聞こえはいいが、要するにお題目でしかなく、御座なりにされている。従って、”愛“の実現など程遠い状況である。しかし、他者理解も相互承認も、昔に比べれば、格段に進展しているし、若い世代を中心に、労りや思いやりの同情共感systemにも関心が高い。宗教的救済aidへのneedsも高まっている。”愛“は渇望されている。ボクたちは予感し、知っているふりをする。”愛”の時代は来る、と。ボクたちは入り口に辿り着いた、と。それが、錯覚であり、誰かの言う幻想であり、illusionであると、讒言(ザンゲン)されたとしても。
ボクたちは所詮、素粒子と反素粒子の気まぐれな衝突により生じた誤差(対称性のやぶれ)から派生して生成した世界の一部に過ぎない存在であり、それも、近年知ったのだが、その実存が何を意味するものかも、如何なる価値を持つものかも知る術(スベ)もなく、ただ、漫然と日を送っているような次第だったから、もうとうに忘れてしまっていた“愛”ある世界、という懐かしい未来の復活に動転してしまった。確かに、“愛”は遠のいていた。しかし、“愛”という、ボクたちの知覚し得る無形の至福の感覚が為す、安らぎ、その、絶対の平和に憩う時間にこそ、ヒトが、ヒトとして得られる最高の価値がある、のではないだろうか?それは、永遠の宇宙というものがあるとすれば、その世界を遍(アマネ)く照らす、彼(カ)の母性に育まれた慈愛affectionの光であり、光明なのだ。
未来のdigital社会で、“愛”は実現するかもしれない。それは未だ希望的観測かもしれない。それでも、必ず、自由を手にすることができるように、真の“愛”も手にできるに違いない。ボクたちの時代は、その社会への架け橋の時代であり、今が、旅立ちの時、なのである。
(これは未だボクの白昼夢である。しかし、明日は必ず来る。未来を信じよう!)
これにて「自我と人格」は終了しました。
つたない文章にお付き合い頂きありがとうございました。
fin.