自我と人格 extra edition その3


urgent question(-緊急質問)
Siri, are you crazy or not?
Anything wrong with you recently?
-Siri, どうかしたか?
-最近、マズいことでもあったか?


近頃、Siriがオカシイ。“宮城野区”を“キュウジョウノク”などと言う(英語version)。
software updateのたび、そのメンテは、何かオカシイ、と思う。

質問事項がやたらと多い契約書も増えている。そのvolumeは昔のソレとは、違う。
答える側が早く終わらせようと、レ点のメクラ判を押し、とにかく、IDにこぎつけるしかない。

中身を精査するヒマも無い。
又、一つの結論に誘導する、全くタメにするだけのアンケートも増加の一途である。

悪意を感じる。

ハッキリ言って、キカイに悪意は無い。
キカイは、依然として、統合型意思決定にも分散型意思決定にも関与する機能を持たない。
確かに、systemの意思決定processの大半はキカイのprogramであるが、
そして、それは、確かに、neural networkという、AIのdeep learningの手法ではあるが、厳密に言って、キカイが最終的に“決断する“などということは起こり得ないのである。

仮に、キカイがそうした段階に近づいたとしても、概念上の、あるいは、観念的問題を処理するには、“意識”の醸成foster awarenessを可能にする機構の知識が必要となるであろうし、それは、実際の、人間の意識のmechanism、構造を識(シ)ることこそが前提となる、研究・解明の努力が不可避であって、それは、まだ、しかし、未知なる、未踏の謎の領域にある、と言わざるを得ない。

従って、人工的にそれを構築することなどは、到底及びもつかないことであって、如何なる解釈がなされようとも、キカイが“決断する“ということは、凡そ不可能なのである。
困ったことに、人工知能AIという言葉だけが独り歩きして、キカイ全盛の時代が迫っている、かのような異常な錯覚に、社会全体が陥っているように見える昨今ではあるが、現実はいたって平穏・着実に推移しており、ボクたちは目の前の成すべきことを成すのみである。

昔々、PCやスマホの標準装備であるSiri systemはespritを感じさせるuniqueな会話が楽しめる人気のcommunication toolであった(歌を歌え、と言えば、その曲を歌う訳ではないが、そのmelodyを流したりすることもあった。)。だが、今や、そんなことは望むべくもない。日本語versionはただのオマケに過ぎない。webへのツナギなのだ。イヤになる。英語versionは、まだ会話であるが、webへの誘導に変わりない。それというのも、全てはSNSのranking優先とCloudのbig-data優先の、粗悪な不特定多数の情報の反独占に起因するものであることは、覆うべくもない事実である。

今、webにaccessすると、最初に提示されるのは、商品名か、店名であり、固有名詞であることは稀である。音楽などは、originalを指定しないと、何時までもcoverを続ける。ゴミ(debri)以下。もはや、クズ情報である。画して、netの情報は封じられた。誰もが利用するようになったinternetは交通整理が必要になっている。Fake情報はあふれ、事実上、優先度の低い情報がrank-upし、肝心の欲しい情報は後回し。辞書も役立たず。まともに変換もできない。この3年間で、この体(テイ)たらく、これが、今のwebの実態actual situationではないか!

どこの誰が、いつ、どんな情報をwebに発信したか、その真偽は如何なるものか、査定が必要である。だが、情報を検証するのはSNSではない。その信用度は低い。これは、各個人が為さねばならない作業である。勿論、web上のdataを全て検証することなど、誰が考えても不可能であること位、判っている。それなら、こういう考えはどうだろう。各人がweb外のdata baseで照合・確認した情報を、web上の情報と突き合わせていく、というのも、一つの方法ではないだろうか?それは、全体の膨大な量からすれば、砂漠の一滴であるが、善良な参加者を募れば、それだけでも、意味ある行動である。web上で幅を利かせているFake informationに一矢(イッシ)報いてやることができれば、それだけでも溜飲(リュウイン)が下がる。

Fakeを是正し、根絶しようとしても、誰かが、webをpatrolしたり、watchするだけでは、このconfusionは収拾できない。公的機関や規制当局によるcheckは恣意的になりやすく、危険だ。だから、何らかの是正手段があるとすれば、それは、個人の良識によるcheckに帰着する。誰しもが、自分の持つ情報と怪しげなweb上の情報とを突き合わせ、逐次、検証し、些細なことでも、明らかに誤りと判断できれば、その発見の段階で、正確・詳細な情報を明示し、実名を明記してrewriteする事を義務付けなければ、Fakeを根絶することは、絶対に出来ない。そして、それがruleとして公認されないのであれば、webの公正さjusticeを担保(保証)することはできず、牽いては、webの無法状態を追認するだけでなく、webの存在意義それ自体、信頼そのものを揺るがす問題に発展するだろう。

情報はqualityの時代に突入した。

正確・詳細・客観性・理知的情報こそが、これからのボクたちにとって必要不可欠であって、それは、当初は、高価で、特定の少数のuserにしか提供されないかもしれないが、しかし、携帯の写メが、一眼レフを一掃するほど、高画質高精細に進化したことを考えれば、巷(チマタ)に溢(アフ)れるゴミ情報も、多分、高品質高倫理の情報が一般化すれば、粗悪で出鱈目(デタラメ)な、それらのFake dataは淘汰され、webから、何れは、消えゆく運命となる、のではないだろうか?それは甘い考えで、鼬(イタチ)ごっこが続く?そうかもしれないが、何もしなければ、何も変わらない。それでいいのか?

今、ボクたちは迷走する仮想社会の入り口に立っていて、ともすれば、現実を見失いがちである。

既に、そこにはある種の意思により、企図された有形・無形の力が作用しており、digital社会の支配権を握ろうと、その力は、日夜、情報操作に明け暮れているのが実態であり、ボクたちはその本質から遠去けられている。さらに、ボクたちは、アノ迷走の果てに視考空間を喪失したハイデガーHeideggerらに代表される20世紀実存主義の末路が、如何に陳腐なものになったか、知っているけれど、実はボクたちも又、同じテツを踏もうとしているのではないか、という気配を感じて戦慄し、ある種の疑似的な存在の哲学(?)の落とし穴がすぐそこに、眼前にあるのではないか、という不安に駆り立てられ、沈黙する。

日露戦争の直後、夏目漱石は、その小説「三四郎」の中で、“日本は滅びるネ”と言い、その当時の青年たちについて、“stray sheep…”と独白させ、新たな時代の“展望なき出発”に言及し、世界の前途の不確実性に立ち竦(スク)み、困惑する新世代の言葉にできない深層の動揺を、言い当てて見せたのだが、その状況は、現在のボクたちと酷似していると言える。しかしながら、ボクたちの世界もどんな顛末となるのか、知る由もないが、ボクたちは“迷える子羊stray sheep”などではない。例え、世界が混沌の坩堝(ルツボ)へ落ちていこうとも、ボクたちは常に、実態に向き合い、その本質の動向を見極め、社会から疎外され、酷使され、知の掠奪(リャクダツ)の対象にされることがあっても、世界の究極的帰結における良心の勝利を信じて、成すべきことを成すのみである。

時代は依然、“富の追求“のみに主眼を置き、”自由・人権・愛・平和“は象徴的目標と言えば聞こえはいいが、要するにお題目でしかなく、御座なりにされている。従って、”愛“の実現など程遠い状況である。しかし、他者理解も相互承認も、昔に比べれば、格段に進展しているし、若い世代を中心に、労りや思いやりの同情共感systemにも関心が高い。宗教的救済aidへのneedsも高まっている。”愛“は渇望されている。ボクたちは予感し、知っているふりをする。”愛”の時代は来る、と。ボクたちは入り口に辿り着いた、と。それが、錯覚であり、誰かの言う幻想であり、illusionであると、讒言(ザンゲン)されたとしても。

ボクたちは所詮、素粒子と反素粒子の気まぐれな衝突により生じた誤差(対称性のやぶれ)から派生して生成した世界の一部に過ぎない存在であり、それも、近年知ったのだが、その実存が何を意味するものかも、如何なる価値を持つものかも知る術(スベ)もなく、ただ、漫然と日を送っているような次第だったから、もうとうに忘れてしまっていた“愛”ある世界、という懐かしい未来の復活に動転してしまった。確かに、“愛”は遠のいていた。しかし、“愛”という、ボクたちの知覚し得る無形の至福の感覚が為す、安らぎ、その、絶対の平和に憩う時間にこそ、ヒトが、ヒトとして得られる最高の価値がある、のではないだろうか?それは、永遠の宇宙というものがあるとすれば、その世界を遍(アマネ)く照らす、彼(カ)の母性に育まれた慈愛affectionの光であり、光明なのだ。

未来のdigital社会で、“愛”は実現するかもしれない。それは未だ希望的観測かもしれない。それでも、必ず、自由を手にすることができるように、真の“愛”も手にできるに違いない。ボクたちの時代は、その社会への架け橋の時代であり、今が、旅立ちの時、なのである。
(これは未だボクの白昼夢である。しかし、明日は必ず来る。未来を信じよう!)

これにて「自我と人格」は終了しました。
つたない文章にお付き合い頂きありがとうございました。

fin.
2019年03月04日
Posted by kirisawa
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