Melponeme 5章


Melponemeの渇き 5章
 

渇きとは,何時の時代にもある渇望のことである。

地下鉄道underground railroad とは,アメリカで南部奴隷制地域から北部自由州やカナダへ奴隷となっていた黒人を脱出・逃亡を助けた組織のことである。トーマス・ギャレット(Thomas Garrett 1789.8.21.-1871.1.25.)らクエーカー教徒や「アンクル・トムの小屋」作者ストウ夫人(Harriet Elizabeth Beecher Stow 1811.6.14.-1896.7.1.) らの協力の下,過酷な労働や劣悪な環境から脱走する黒人奴隷を匿(カクマ)うなど,人種差別を嫌悪する人々によって秘密裏に始められた運動であり,奴隷所有者や奴隷ハンターである警察の眼を掻い潜(クグ)っての非合法の結社であった。

その運動は,19世紀に入って組織化され,「地下鉄道」と呼ばれるようになったのは,蒸気機関車が普及し始めた1831年ころからだと言われている。この組織内では,黒人と白人が協力し,奴隷の逃亡を誘導する人を「車掌」,匿った場所を「駅」,次の「駅」へ向けての輸送情報を「ブドウ蔓(ツル)電信」と呼び,主要な運行ルートとして,東海岸沿いに北東部州に至るもの,テネシーやケンタッキー東部からオハイオに至るもの,ケンタッキー中西部からイリノイ,インディアナに至るものがあった。

この運動の中心人物こそ,「車掌」として多くの同胞を救出したハリエット・タブマン(Harriet Tubman Davis ;通称Minty 1822.3.?-1930.3.10.)である。奴隷の両親から生まれ,5歳くらいからメイド兼子守として働らかされていたハリエットは,,1844年,自由黒人のジョン・タブマンと結婚したものの,自由の身とはなり得ず,自身の奴隷時代に受けた虐待の後遺症であるナルコプレシー(居眠り病)とてんかんに一生悩まされる。1947年,奴隷主が死に,奴隷は売り払われることになった時,引き留める夫を残して,北部のフィラデルフィアに逃亡した。その途上,「地下鉄道」の連絡員だったクエーカー教徒に助けられその組織のメンバーとなる。1850年,逃亡を手助けするものを取り締まる逃亡奴隷法が成立すると,警察の目を盗み,ハリエットは「車掌」として活動に積極的に参加し,自叙伝によれば,1850年から1860年の間に19回南部と行き来して自分の両親をはじめ300人余りの黒人奴隷の解放に尽力した,という。ハリエットは指名手配され,その賞金は4万ドルにまで跳ね上がった。

地下組織のため,正確な数は割り出せないが,運動の協力者「従業員」は3200人以上といわれ,これにより南部は10万人以上の奴隷を失った。1850年以降はカナダ領まで「地下鉄道」運航の必要の機運が高まり,ハリエットはその中心人物としてカナダへも解放された黒人を運んだ。ハリエットは伝説的人物として知る人ぞ知る黒人女性の勇者だったが,2016年,その肖像が20ドル紙幣のデザインに採用されることになり,その業績が再評価されている。トランプ政権によってそれは棚上げされていたが,2021年1月,バイデン政権によって既定の方針が確認され,アフリカ系アメリカ人女性として初めて採用されることになっている。

1861年,南北戦争が始まると,ハリエットは料理人兼看護婦として働くと同時に,道慣れた南部地域の斥候として戦地を巡り,北軍に貢献すること大であった。1863年7月,ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利すると,奴隷解放が現実となり,ハリエットらは狂喜したが,彼らに恩給や年金という恩典がある訳でなく,ハリエットが手に入れたのは33年後に未亡人年金年間240ドルだけだった。ハリエットは困窮し,1869年,自叙伝を出版して糊口を濁す生活を送ったが,黒人と女性の権利を主張する活動を一生に渡って続け,人権運動の先端を行く孤高の信念の人であった。1913年,肺炎で死去。93歳だった。
2022年09月03日
Posted by kirisawa
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