Bloody Elegance Sudden 5


Bloody Elegance Sudden 5

記憶というものは、寧ろ、未来のために存在し、過去を、ただ単に投射するために生じるものではない。しかし、それは、教訓とは呼べぬ、治癒し得ぬ傷に近い。

Sudden 5

コンスタンティヌスの母親の話に戻ろう。つまり,聖ヘレナが如何なる人物であったか。彼女を妻としたコンスタンティウスではあったが,時の皇帝にガリア副帝に任じられたとき,第2正帝マクスミアーヌスの娘テオドラを正妻にすることに同意せざるを得なかった。ヘレナは出自の卑しさから身を引かざるを得ない。テオドラを娶(メト)ったコンスタンティウスは,マクシミアーヌスに代わって,ブリタニアに遠征して功を上げ,ヘレナの実子,息子コンスタンティヌスも,ローマの宮廷に留められる才覚を顕示した。305年,父コンスタンティウスが西ローマ帝国の正帝に就くと,翌306年,息子はブリタニアに派遣され,スコットランドまで領土を広げた。

同年6月25日,ヨークで父が死亡すると,帝位を巡り,有力者間に争いが起こった。コンスタンティヌスはこの時,有力者マクシミリアーヌスの娘ファウスタと結婚していたものの,ローマでの政争に巻き込まれぬよう自重し,モーゼル河畔のトリアに宮殿を建て,母ヘレナを迎え入れた。而して時は満ち,311年,コンスタンティヌスは,好機到来と見て,ローマを平定するためアルプス越えに臨んだ。その進軍の最中,軍は夕闇に十字架が赤く浮かび上がるブロッケン現象に遭遇し,それを吉兆と見たコンスタンティヌスは,ギリシャ文字でキリストを意味する文字の最初の2文字を盾に刻ませ,ローマに入城した。

コンスタンティヌスは西ローマ帝国の正帝になると,313年,「ミラノ勅令」を発布し,帝国内でのキリスト教の布教を許し,ヘレナはローマで最初のキリスト教会を建て,宣教に勤(イソ)しんだ。聖ペテロ殉教の地に聖ペテロ教会(現在のヴァチカンのサン・ピエトロ寺院)を建てさせたのもヘレナの助言によると言う。しかしながら,孫であるコンスタンティヌスの長男の醜聞やファウスタとの間のイザコザから逃れるため,既に高齢であったヘレナは関わりたくない現実から逃避するために聖地巡礼に旅に出ることになった。

ヘレナはバルカン半島を通り,キプロス島で冬を越し,ベイルートの南から上陸し,イェルサレムに入った。そして,聖跡を巡りイエス昇天の地と出生の地ベツレヘムにそれぞれ教会を建てさせた。ヘレナの巡礼は真に敬虔なものであった。その旅は純粋な信仰の動機に裏打ちされていた。ヘレナはローマに帰り,329年に逝き,聖者に列せられ,現在の祝日は八月十八日とされている。ヘレナの聖地巡礼には,聖遺物の発掘の噂が付きまとう。既に4世紀末には彼女はイエスの架刑にされた十字架やその釘の発見者であることを,まことしやかに喧伝(ケンデン)する事実無根の文書が流布されていた。そういう訳で,ヘレナは,キリスト教再興の功労者として歴史に名を留めることとなったが,その島に遺物がある訳ではない。

 ナポレオンが,その島の謂(イワ)れを知っていた形跡はない。彼にとっては,ただ謂れなき流刑者としての長い時間だけがそこにあった。ナポレオンが臨終の間際にあった頃,彼の母親はローマで彼の無事解放を祈り続けていた。時代は未だ,殺戮者の栄誉を称える空気が強く,繰り返された戦争の犠牲者を悼む役割は教会によって営(イトナ)われていた。そこでは戦争の暴虐性など,取るに足らないこととされ,戦争の英雄とは,より多くの血を流した者の栄誉であった。血塗られた優雅さだけがそこにあったのである。
2022年09月01日
Posted by kirisawa
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