Bloody Elegance Sudden 2


Bloody Elegance Sudden 2


記憶というものは、寧ろ、未来のために存在し、過去を、ただ単に投射するために生じるものではない。しかし、それは、教訓とは呼べぬ、治癒し得ぬ傷に近い。

Sudden 2

ナポレオンの糟糠(ソウコウ)の妻であったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(Josephine de Beauharnais 1763.6.23.-1814.5.29.)はナポレオンをも凌ぐ多感な女性であった。出身は西インド諸島マルティニクのクレオールであり,エキゾチックで類稀(タグイマレ)な美貌の持ち主で,一応貴族の身分であったが,それは本国から遠く離れた植民地でのことであり,その地位はあっては無きが如しであった。1779年,16歳で本国のパリで結婚した相手も子爵とは名ばかりで,折り合いも悪く,二人の子を産んだものの,4年後には離婚してしまった。彼女の本名はマリー・ジョゼフ・ローズ・何とかといううろ覚えでしか覚えられないような家系で,本国のパリでは貴族とは言い難い身分であり,離婚後はマルティニクに戻らざるを得なかった。

こうして,マルティニクの実家に引き戻されたジョゼフィーヌだったが,革命の余波が島にも押し寄せると,パリにしか知り合いのいない彼女は,再び故郷を離れて革命で混乱するパリに戻るしかなかった。しかし,元夫や知人の助命嘆願に奔走した彼女は,1794年,元夫がギロチンに掛けられると,同罪の汚名を着せられ,ジャコバン党のロベスピエール(Maximilien Robespierre 1758.5.6.-1794.7.28.)が失脚して処刑されるまでの1カ月余り投獄される羽目になってしまう。その後,生活のため,総裁政府の幹部であったポール・バラス(Paul Baras 1755.6.30.-1829.1.29.)の愛人となって,親友のテレーズ・カバリュス(Therese cabarrus 1773.7.31.-1835.1.15.),ジュリエット・レカミエ(Juliette Recamier 1777.12.3.-1849.5.11).と並ぶ社交界の花形を演じる日々を送り,「陽気な未亡人」とあだ名され,派手好みの浪費家として生活していた。そして,どういう訳か,年下のナポレオンから求婚され,1796年,結婚したが,その二時間しか眠らない男と多情多感でベッドで過ごす時間の方が長い女との生活は他人の理解するところでなく,ナポレオンが如何に戦地に慰問に来るよう手紙を送っても,ジョゼフィーヌは無しの礫(ツブテ)であった。

ナポレオンがエジプト遠征に出かけている最中,ジョゼフィーヌは例によって浮気の虫が疼(ウズ)き,美男の騎兵大尉と関係を持つようになった。ナポレオンはこの風聞を聴き,ジョゼフィーヌを窘(タシナ)める手紙を送ったが,その郵便船がイギリス艦に拿捕(ダホ)され,新聞に掲載されてしまう。大恥をかいたナポレオンだったが,ジョゼフィーヌはただのスキャンダラスな女性だった訳ではない。彼女の遍歴と人脈はナポレオンをして皇帝への道を歩ませるうえで影の力となり,陰に陽に作用した。ブリュメールのクーデタ然り,帝政への道然りだったから,彼女自身は1810年1月の離婚宣告には,かなりの衝撃を受けたが,パリ郊外の居城のマルメゾンの永住権を認められたほか,ナポレオンの居室もそのままの状態で保存することも許され,実際にはナポレオンの前夫人の権威は保たれた。しかし,ロシア戦に敗北して窮地にあったナポレオンを奮い立たせるだけの命の時間はジョゼフィーヌには残されていなかった。ウィーン会議に先立つ5月,皇后ジョセフィーヌは肺炎で急逝してしまう。その余りにもタイムリーな結末が,偶然か,陰謀か,は判然としないまま,ナポレオンは流刑地エルバ島へ流されることは決まった。

人生には大きな分岐点が何度かある。そして,そこには出会いがあり,別れがある。ボクたちはそれを何らかの縁(エニシ)によるものと感じる。が,実際はその偶然をいつ必然と自覚するか,によって,結末は変わってくる。人生に予定調和があるか,と言えば,それは無い。人間が自らの自由を放棄し,屈服した時に運命は力を持つだけである。ボクたちの内在は常に是か非かを問う。非とすべきところを是としてしまった時だけ,運命が支配する虚妄の世界へ人は転落し,自己を見失い,その運命を受け入れてしまうのではないか。ナポレオンとジョゼフィーヌの見た夢は同床異夢ではなかった。二人は革命の頂点に立ち,為すべきことを成し,歴史という舞台から去っていったのである。
2022年09月01日
Posted by kirisawa
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