Bloody Elegance Sudden 1


Bloody Elegance Sudden 1

記憶というものは、寧ろ、未来のために存在し、過去を、ただ単に投射するために生じるものではない。しかし、それは、教訓とは呼べぬ、治癒し得ぬ傷に近い。

Sudden 1

その1812年という年は、疲れ切った革命の薄明のシンボルが死を迎えようとする年だった。ヒトは自らに酔い、自失し、錯覚の思考回路の錯乱の中に身を亡ぼす動物である。それは有名無名を問わない。ボクたちもそうであり、歴史上の登場人物も、今も幼き三歳児からして、そう(壮・躁)なのである。そして、又、程度の差こそあれ、うつ(虚・鬱)なのである。ヒトは、病み(闇)、ヒトは憂い、ヒトは悩むのであるが、そして、又、疲れ、憑かれる運命にあることも事実ではあるが、生きていかねばならぬ。それ故、自らを建て(楯)、自らを鼓舞し、励まし、俄然、自らを信奉せざるを得なくなる。だから、だから、酔う他ない。つまり、誤魔化すのだ。酔う他あるまい。自らに、迷いがあろうと、卑怯であろうと、言い訳であろうと、酔い続けるしかない、演じ切るしかないのだ、この“世界”というステージでは。

何故なら、ヒトは確信が持てない、自分の思っていることが、自分がしたことが。つまり、自分の行為に“真”の確証性が持てない一方で、ヒトには、予測と検証のシステムである、プロメテウス・エピメテウスシステムが、同時並行的に装備・起動しており、常に善悪の彼岸を行き来しているため、報酬を見込んで一つの行為を実行する前頭前皮質では,その進行性アップデートが続くことになる。そうすると,善なる行為も,その動機の曖昧さによって,より打算的な行為である可能性は否定できず,善悪の区別と言うものが,行為の不確定要因として残影してしまうのである。つまり,結局のところ,もし,実存が本質に先行するとすれば,それはひょっとすると潜在する自我の誤認であるのかもしれず,パンドラのピトスとは,実はそのパラドックスをも包容した物語ではなかったのか,とも,結論できるのではないだろうか。よく言う、汝自身を知れ、とか、我々は何処から来て、何処へ行くのか、といった定番の哲学的命題も、この不安心理から派生した、所謂、“思いつき”(浮想)に過ぎないのかもしれない。

ナポレオン(Napoleon Bonaparte 1769.8.15.-1821.5.5)という男が,革命戦争において,偉業を成し遂げ,フランスを国民国家として,確立した功績は大きい。しかし,彼は革命に追い越されてしまった権力の扱いを誤り,帝政などと言う馬鹿げたローマの亡霊に取りつかれ,拡張主義の妄想を抱くに至った。曰く,大陸封鎖,曰く,ロシアの解放,自由と平等の革命理論の浸透である。この第一の大陸封鎖は,全く何の効果も無かった。イギリスは産業革命で好景気に沸いており,ロシアからの小麦や穀物の輸入も順調そのもので,財政も安定し,フランスの思惑は全く外れていた。イギリス海軍は,大西洋から地中海,バルト海まで制海権を持ち,フランスの敵ではなかった。

ナポレオンは何の気の迷いか,ロシアに遠征することに決めた。海軍ではイギリス,陸軍ではフランス,という妄想が彼を縛っていた。ヨーロッパ中から、掻き集められた、彼の幻想,ファンタジーに酔い痴れてしまった雑多なソルジャーたちは、ヴェルサイユの前に、今まさに結集した。部隊の中核のフランス兵25万人、オーストリア、ドイツ、イタリア、スイス、オランダ、ポーランドから40万人など,全体では約69万人の,男だけの殺戮者たちが集められ、彼の号令一下、最果ての国の都モスクワへ向かおうとしていた。これが、あの緻密な作戦家である皇帝ナポレオンの立てた作戦だとしたら、余りのお粗末さに失笑せざるを得ない。ナポレオン崩壊の引き金は、実は,ジョゼフィーヌ(Josephine de Beauharnais 1763.6.23.-1814.5.29.)との離婚であった。彼は、後継願望から、最愛の理解者・後援者を自ら失い、獅子身中の虫(マリア・ルイ-ズ Maria Luisa 1791.12.12.-1847.12.17.)をおびき寄せ、2世を得たことによって、詰まらぬ凡庸な夢想家に転落したことにも気づかず、己自身は、まだ、誉高き、軍神の化身と思い続けていた。ロシア戦は結果以前の問題である。

 6月23日,サンクトペテルブルクからの最後通牒に対する返答を待たずに,ナポレオン指揮する大陸軍は近接するロシア領ポーランドに侵攻,カリーニングラードの近郊ネマン川を渡り,一挙に前線に向かった。しかし,ロシア軍は決定的となる会戦には応ぜず,徐々に後退し続ける戦術を繰り返し,大陸軍は消耗戦を強いられ,次第に補給線は伸び,遂に,現地での収奪によって,大軍を維持するしかなくなっていた。傷病兵は増え,血塗られた戦場は東に向かって拡大し,8月の時点で,既に,数万のソルジャーが落命し,大陸軍では,不敗を誇る皇帝への不信感が次第に咋(アカラサマ)に語られるようになっていた。

一方,ロシア軍は,バラクライ(Michael Andreas Barcley de Tolly 1761.1818.3.26. スコットランド系ロシア人)、クトゥーゾフ(Mikhail Golenishchev-Kutuzov 1745.9.16.-1813.4.28.)の両将軍の下、計略通り、大陸軍の兵站(武器弾薬・食料供給)を断ち、モスクワ市郊外で決戦しようという作戦が練られていた。会戦の地はボロジノの丘付近とされたが,実は,それも陽動作戦で,ロシア側は,肉を切らせて骨を断つ,モスクワ焼土化作戦の準備を進めていたのだった。9月に入っていたロシアは,寒風が吹き始め,既に,多数の戦病死者を出しているナポレオンの主力部隊は飢えと寒さに翻弄され,その兵力は10万人にまで縮減していた。ナポレオン自身も感冒に罹患し,冷静な判断力を失い,手薄になったロシア軍の隙を突いて勝敗を決しようと,9月6日,モスクワ市内に突入した。しかし,そこにはロシア軍の姿は無かった。ナポレオンの軍団は,難なく,クレムリンに無血入城したが,それはナポレオン自身が袋の鼠になったことを意味した。

この時,以前のナポレオンならば,ここに留まる危険を感知できただろう。しかし,彼はロシアの術中に嵌(オチ)ている自分に気づくことさえもできなかった。クレムリンの宮殿で,彼が自分の過信に酔い痴れて居たその時にこそ,ロシアは,その罠に堕ちた害毒を焼き殺すべく,最終戦を実行した。モスクワの市内の至る所から火の手が上がり,瞬く間に都市は炎上し,5日間燃え続け,外国の敗残兵は火炎の中を逃げまどい,命からがら,敗走するしかなかった。外敵を邀撃(ヨウゲキ)し,街と共に葬り去ることに成功したクトゥーゾフは言った。「モスクワを失っても,ロシアを失いはしない。しかし,軍が全滅すれば,モスクワもロシアも消滅する」。ナポレオンは炎の中をペトゥロウスキー宮殿に辛うじて脱出し,事なきを得たが,最早,その不敗の神話を信じる者はいなくなった。

血まみれの華麗なる皇帝の没落劇に,反革命の狼煙(ノロシ)は上がり,封建領主たちの反撃が始まった。全ての歯車が逆回転を始め,世界は革命前の前のめりの王権神授説に巻き直され,ハプスブルグ家の支配の下,市民社会への脱皮は封建国家への復帰へ塗り替えられていった。一兵卒から皇帝という,傑出した英雄ナポレオンの幻想はかき消され,彼は忽ち,歴史に見捨てられた亡者の一群の一人となってしまう。栄光は幻となり,伝説の虚像は音を立てて崩壊し,過去へと消え去っていった。
2022年09月01日
Posted by kirisawa
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