ハイネマン 自由の砦,世界戦争後のドイツ;近代ドイツ 18


グスタフ・ハイネマン(Gustav Heinemann 1899.7.23.-1976.7.7.)が生を受けたのはノルトライン・ウェストファーレン州のシュヴェルムである。父親はエッセンでクルップの委託販売員をして生計を立てていた。父や祖父,曽祖父は,皆,急進的な自由主義者であり,曽祖父は,1848年の三月革命にも参加している。どのキリスト教会へも属せず,子供のころは祖父の影響で革命歌を唄っていたという。少年期から,すでにドイツ人の臣民意識こそが,自由な発展の弊害であることに気づき,革命的変革が必要であることを直感していた。最初の世界戦争には,1917年志願して入隊したが,心臓の病で3ヶ月で除隊し,前線へ行くことは無かった。弁護士を志していたハイネマンは1919年から学業に専念し,1921年,第一次法曹界試験に合格し,マールブルク大学から政治学博士号を授与され,1926年の第二次法曹界試験にも合格し,エッセンで弁護士を開業,ヒルダ・オルデマンと結婚し,順調な人生行路を歩み出した。

ヒルダはマールブルク大学のルドルフ・カール・ブルトマン(Rudolf Karl Bultmann 1884.8.20.-1976.7.30.) の下でプロテスタント神学を学んでおり,教会で働いていた。彼女を通じて,スイス人神学者カール・バルト(Karl Birth 1886.5.10.-1968.12.10.)の知己を得たハイネマンは急速にバルトの新約研究に感化され,民族主義をも,反ユダヤ主義をも拒絶し,超越する,万民平等のキリスト教に覚醒する。1930年ハイネマンはキリスト教社会運動に参加したが1933年,ナチスが政権に就き,1934年,バルトは,ナチス政権に従うドイツ福音主義教会に対し「告白教会」を結成して対抗,ハイネマンも広報役として参加したが,バルトはヒトラー(Adolf Hitler 1889.4.20.-1945.4.30.)への忠誠宣誓書を拒否し翌1935年追放された。「告白教会」内でも,セクショナリズムによる対立があり,1939年,ハイネマンも退会してしまう。

戦時中はユダヤ人を匿(カクマ)ったり,反ナチス運動のグループの支援を続けていたが,彼が網にかかることはなかった。1945年敗戦後は,ドイツ福音主義教会の幹部らと共に,「シュトットガルト罪責告白」に署名し,宗教家としてのケジメをつけ,1946年エッセン市長に就任した。それに先立つ1945年のキリスト教民主同盟CDUの結成にあたっては,カトリック系のアデナウアー(Konrad Adenauer 1876.1.5.-1967.4.19.)とプロテスト系のハイネマンが勢力を二分する形成で,1949年連邦首相にはアデナウアーが,内相にはハイネマンが選出され,カトリックとプロテスタントのバランスが保たれたか,に見えたが,1950年8月,ドイツ再軍備計画が漏れ,ハイネマンは10月内相を辞任,1952年には,CDUを離党し,全ドイツ人民党という東西統一を目指す政党を結成した。

ハイネマンはアデナウアーへの手紙の中で,ドイツプロテスタント教会会議が再軍備を拒絶していること,戦争になれば,ドイツは戦場と化すだけで得るものは何もないことを力説して,警告した。当時,スターリンが東西ドイツの非武装化を提案してきていたことも検討に値すると述べたことで,聴衆は憤激したが,ハイネマンは再軍備を容認すれば,再び軍需優先の独裁国家になることを警戒することも忘れなかった。しかし,翌1953年の選挙ではハイネマン自身が落選してしまう。1957年社会民主党SPDと合流して国政に復帰すると,プロテスタント急進自由主義を掲げる国民政党に党を脱皮させる一方,再軍備に際して非核化を条件とすることを党綱領に明記させた。1958年には,熱核兵器のような大量殺戮破壊兵器の非人道性を説き,国際法や基本法25条に違反していることを指摘して,反核運動の口火を切った。

1966年,CDUとSPDの大連立政権では法相に就任,刑法改正や姦通罪の廃止や同性婚の黙認,嫡出・非嫡出子の権利平等など,法律の見直しに積極的な姿勢を示した。1969年7月には連邦大統領に就任。10月誕生したSPDのブラント(Willy Brandt1913.12.18.-1992.11.8.)政権と共に,東方外交を推進して緊張緩和に貢献し,来るべき時代を準備した。ハイネマンの評価は,意見の分かれるところではあるが,観念論の時代から実存主義の時代へ脱皮する中で,様々な政治思想が交錯し,現れては消えていき,消えては現れる盛衰の歴史をハイネマンはどう感じていただろうか。彼は,現実的判断をしつつ,理想論に止まらぬ配慮をした有能な民主主義政治家であったことは否めない。そして,極めて保守的なドイツという風土から誕生した政治家であったことにも留意すべきであろう。75年の人生は,彼にとっては,まだ足りないものだった。
2022年09月14日
Posted by kirisawa
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